身重の母
三時を回った瞬間。壁の時計が鳴り始める瞬間を見計らうようにして、リルムは部屋を飛び出した。
ばたばたと喧しい足音を立てて階下に降りると、祖父が目を丸くしていた。
「どうした」
書物から顔を上げて問いかけるストラゴスに、彼女はかろやかに笑う。
「マティータに行って来る!」
「マティータ? ああ、イリスのところか」
「うん!」
玄関脇のポールハンガーから気に入りの上着と帽子をひっつかみ、手早く着込んでゆく。支度を終えて扉をすり抜けると、まるで風のようだ、という祖父のぼやきが背後から追いかけてきた。
一歩外に出れば、ゆるやかに傾き始めた太陽がリルムの顔を照りつけた。街角からひとつ、またひとつと人影が減り始めている。この時期、サマサの昼は短い。皆早々に家に戻り、長い夜に向けて支度を始める時間帯だ。
海が運ぶ冷たい風に身を竦め、リルムは道を急ぐ。
村に存在するわずか数件の小店は、いずれも三時で店じまいだ。リルムの目当ての雑貨屋も例外ではなく、重厚な木製の扉には閉店の札が掲げられている。しかし彼女は構わずに、その扉に手をかけた。
「イリス」
知り合いの店だ、勝手ならば知っている。リルムは断りなく上がり込んで、奥にいるであろう主人を呼ぶ。声に応えて、カウンターの裏から女がひょっこり顔を出した。
「あらあら。いらっしゃい、リルム」
店の主たる彼女――イリスは、営業時間外の客であるリルムに、しかし嫌な顔ひとつせずに微笑んでみせた。村でも十人並みの容姿で、独り身のくせにいささか所帯染みたような所があるが、その笑顔は人目を引く。気だての良さと相俟って、彼女の店はいつでも繁盛していた。もちろん、リルムも常連の一人である。
「今日は何の用? この前言ってた絵筆は、次の船便だけど」
恐らくは閉店後の店内の掃除でもしていたのだろうに、イリスはその手を止めてリルムに向かい合う。落とされていた室内の照明がつけ直されると、テーブルに飾られた宝飾品がきらきらと虹色の光を反射した。
ここマティータは外から入ってきた珍しい品やアクセサリーの類いも扱っている、村で唯一の雑貨屋だ。リルムの使う画材も、この店を通して島外から取り寄せてもらっている。先だっても筆を頼んだばかりだ。だが、今回の訪問はそれとは関係がない。
「ううん、そうじゃないの」
「あら」
イリスは首を傾げる。しばし考え込んでから、ため息まじりに呟いた。
「……もしかして、もう知ってるのかしら」
具体的になにをと言わなかったが、意味するところはわかる。頷くリルムに、彼女は困ったように苦笑してみせた。
「耳が早いこと」
「朝、リーズのおばさんに聞いたの。噂になってるよ」
イリスは深々と息を吐く。これに、今度はリルムが苦い表情を浮かべる番だ。
「だいじょうぶ?」
「……全く。狭い村だから仕方がないけれど」
うんざりとぼやきながら、女は自らの腹に手を当てた。――まだ目立った変化はない。けれども、その噂はすでに村中の女達の口に上っている。
イリスが妊娠したと言う。先だって村を訪れていた旅人の子だと言う噂だが、真偽のほどは知らない。どうでも良かった。重要なのはそんな事ではないのだ。リルムは目を輝かせて、その腹部を見つめる。
「いつ生まれるの?」
「まだまだ先よ」
子供は十月十日で生まれて来ると言う、そのくらいのことはリルムとて知っている。今どの位なのかと聞けば、三ヶ月だ、と答えが帰ってきた。指折り数える。ということは、後七ヶ月もすれば、彼女の中から新しい命が生まれてくるのだろう。
「楽しみだね」
「そうね」
見上げるイリスは今までに見た事がないほど艶やかに、優しく、美しく微笑んでいた。
その笑顔に、リルムは見た事のない母を思う。
肖像画の一つも残っていない母親。どんな姿をしていたのか知る由もない。幼い頃は隣にいたはずなのに、彼女の腕に抱かれていたはずなのに。幾度も見上げたはずのその面影は、記憶のどこを浚っても見つけ出せなかった。
彼女が祖父と呼ぶ老人も、実のところ血縁があるわけではなかった。母が死んで身寄りのなくなったリルムを引き取ってくれた、人の良い老人である。祖父がかけがえのない家族である事に違いはなかったし、今更血縁にこだわるわけではない。だがそれでも、リルムは己に流れる血、そこに繋がる人の顔を知らない。そのことを少しだけ、残念に、思う。
リルムはそっと、イリスに手を伸ばした。まだ膨らむ気配もない、ただの女の腹だ。けれどもこの中には確かに、新しいいのちが存在している。
「お前は、忘れちゃだめだよ」
憶えていなきゃ、いけないよ。この優しい女の顔を。例え離ればなれになる日が来たとしても、決して、自分のようになってはいけない。
祈るように、願うように、繰り返し心の中で唱えた。何度も何度も。
結局の所、世界が滅びに瀕したあの日、イリスは行方知れずとなり、リルムがあの子どもの顔を見る事はなかった。行方不明とは言うが、恐らく単に死体が見つからなかっただけだ。当然、腹の赤ん坊が生まれてくる事もなかっただろう。
忘れるよりも前に。覚えるよりも前に。顔を見る事さえないまま、この世界に出てくる事すら許されずに消えて行った、小さないのちがある。届かなかった祈りがある。
胸の奥から沸き上がる痛みを歯を食いしばってやり過ごしながら、リルムはキャンバスに絵筆を走らせた。女神の絵を描けと言われ、招かれた豪勢な屋敷。この時勢に酔狂な人間もいたと感心するが、今はそんなことに気を取られている場合ではない。
小さく舌打ちをして、リルムは一度描いた女神の顔を、乱雑に塗りつぶした。その上から絵の具を重ねる。――また、塗りつぶす。また描く。また潰す。
想い通りにいかない苛立ちに、リルムは固く唇を噛んだ。何度描いても、どこかイリスの面影が出てしまうのだ。胎内に命を宿し、穏やかに微笑んでいたあの女の面差しが。
その度に違う、と呻いてはやり直す。そんなことを何度繰り返しただろう。いい加減回数を数えるのに飽きた頃には、腕もすっかり疲れきって、これ以上続ける事が出来ない状態にまで追い込まれた。
仕方なくキャンバスから離れ、一旦休息を取る。絵を描き始めてからまだ3日程度。けれどもこんなことで、この先完成までこぎ着けられるのか不安だった。
目を閉じる。思い出すのは祖父の顔、仲間の顔、可愛らしいあの犬の顔。それから――イリスの微笑み。
忘れちゃだめだよ、という、かつての言葉がリルム自身を縛っていた。思い出す事の出来ない母の顔と、母に成れなかった女と。そして、自分とあの子供とを重ね合わせて、感傷に浸っているだけだ。リルム自身そう自覚していても、どうにも感情が言う事を聞かない。何度描いても、女神はイリスによく似た目鼻立ちになった。
うんざりしてキャンバスから離れると、ふと、視界の端でちらりと光るものがある。今朝方、館の主が置いて行った魔石だ。
館の主はこれを見て、女神の絵が欲しくなったのだと言う。参考にしろと置いて行ったものだが、その時はろくに目にも留めなかった。
筆が進まない今、他にやる事もない。リルムはなんとなく魔石を手に取り、鈍く光るその表面をじっと眺める。
室内のぼんやりとした光をはじいて、魔石は七色に反射していた。確かに不思議な力を感じる。強い魔力を秘めた石である事は明白だ。つるつるとした表面には、リルム自身の顔が歪んで映し出されている。
じっと見ていると、その姿が揺らぎ、崩れて、一瞬の後には見た事のない女の顔がそこにあった。
息を飲む。石の曲面のせいで姿は歪み、判別しずらいが、映っているのはリルム自身の顔ではない。このところ彼女の意識を支配している、あの村の女の顔でもない。これまで見た事のあるどの顔とも違う。――やわらかな金髪に縁取られた細い顎と、緑とも青ともつかないひとみ。
これは、誰。
「……ママ?」
茫然と呟いた時には、その姿はぼやけて消え、後にはリルム自身の顔だけが残された。ほんのわずか垣間見る事の出来た面影は、すでに影も形もない。冷たい石が作り出す、不思議な色の光だけがあった。
しばし、リルムは立ちつくす。
やがてぎゅっと噛んだ唇が、ぷつりと破けたことで、我を取り戻した。顎に血が伝ったが、それを意にも介さず、リルムはキャンバスに向かう。
途中まで描きかけた絵、イリスに似た顔立ちの女神の絵を、彼女はナイフで切り裂いた。何度も何度も、執拗に。そうして新しく用意したキャンバス、真っ白な画面に向き直る。
今なら、描けるような気がした。
リルムは一度深呼吸をしてから、絵筆を取った。かつて存在していた雑貨屋の店主のことも、その赤ん坊のことも、すでに頭にはない。描き出すべきビジョンが、ようやく彼女の中で固まった。
色を、重ねる。何度も何度も。描き出すものは、これまで追いかけ続けて来た、彼女にとっての女神だ。
忘れかけた面影を、今ならきっと。
描き出せる。きっとイリスと同じように、艶やかに、穏やかに、美しく微笑んでいた。その人の面差しを。