苺な気分


 その日の午後、彼は不意に目を覚ました。
 全身に痛みは残っていた。だが、起き上がれないほどではない。身体を沈めていたクッションから、注意深く上体を起こす。途端に彼の全身の節々から悲鳴が上がった。だが彼は、眉をひそめるだけで痛みの全てをやり過ごす。
 時間をかけて身体を起こし、ふっと息を吐く。額に浮かんだ汗が垂れて、彼の左目に入った。鋭い痛みに反射的に目を閉じる。たったこれだけの事で、纏った衣服が重くなるほどの汗をかいている。まだまだ回復にはほど遠い。
 深く嘆息しながら、服の袖で額と目元を拭った。彼が着せられているのは、見覚えのない衣服だ。サイズも少し大きめだが、清潔で、洗剤の良い香りが漂って来ている。
 眠りにつく前に着ていたものと、似ているが違う服のようだ。眠っている間に着替えさせられたのだろう。自然と眉間に皺が寄る。あの女がやったに違いない、と、うんざりした気分で溜め息を吐いた。
 意識は朦朧としていたが、起きている間の記憶は概ねはっきりとしていた。傷ついた彼を解放したのが誰であったのかも。その顔も、はっきりと覚えている。
 若い女だった。美醜は、彼にしてみればどうでもいいことだから、覚えていない。ふっくらとした健康的な血色の頬、それをふちどる柔らかな金色の髪と、青とも緑とも付かないひとみの色だけは印象に残っている。
 血だらけの彼を見ても、怯みもしない。気の強そうな眼差しが目についた。
 その女は、細い身体で彼を支えて、恐らく自分の住まいであるこの家に彼を運び込んだ。医者を呼び手当をさせ、村の男の手を借りてぼろぼろの衣服を改め、血と泥に塗れた彼の身体を清めた。
 なぜそんなことをしたのか。普通なら放っておくだろう。気味が悪くて近寄らないのが当然だろうに、彼女はそうしなかった。それゆえ、彼は生き延びてしまった。こうして重い身体をベッドに横たえ、まだ、生きている。
 なぜ、と思う。だが、彼はまだ、女に理由を訊いていなかった。それどころか、傷の手当を受けてから一度も口をきいていない。女の方は何くれとなく彼に話しかけて来ていたが、一切返事をしなかった。深い理由はない。ただ、彼はまだ女を信用していない、それだけの理由だった。
 ふと気付いて周囲を見渡すと、部屋の中に、いや家の中にもあの女の気配はなかった。彼は首を傾げる。
 女は針子の仕事をしているらしく、いつも家の中にいた。彼の容態を見るため出歩かないよう配慮していたのか、少なくとも、これまで彼が目覚めた時、女が家の中にいないことはなかった。
 どこに行ったのか。それは興味と言うよりも、疑念に近い感情だった。彼はまだ女を信用していない。姿が見えないことに、不思議と神経がささくれ立った。
 ベッドから足を降ろして、立ち上がる。長い間寝たきりだった身体はひどく訛っていて、動くたびに錆びた機械のように全身が軋んだ。ベッドの脇に置いてあった靴に足を突っ込み、よろめく身体を壁伝いに支えて寝室を出る。自分の足だけで歩くことは、随分と久方ぶりのことだ。
 玄関を一歩外に出れば、そこは芝生や下草に覆われた小径だった。注意深く観察すれば、最も新しい足跡がどれか、判別することはさほど難しくはない。
 彼は足あとを辿って、女の行方を追う。町外れから裏の山に入ったようだ。踏み別けた跡もまだ真新しい。痛む身体を極力意識しないようにして、彼は歩を進めた。山道をある国は、まだ些か辛い。下草を注意深く踏み別け、足取りを辿った。
 ふと視界に明るい色が刺して、眩しさに彼は目を閉じる。一瞬、木漏れ日が目を焼いたのかと思ったが、違った。再び目を開けて、確かめる。揺れる金色は、彼女の髪の色だ。空の色に似た淡い青のワンピース、白い肌、薄暗い森の中には不釣り合いな恰好をして、女は地べたにかがみ込んで何かを集める作業に没入しているらしい。
 彼は何ともなしに、その女を眺めた。
 言葉にするなら命の恩人、とでもいうべきだろう。彼の命を救い、握った女。その白い横顔をじっと見ていると、ふと女が何かに気付いたように顔を上げ、彼の方へと振り返った。
 彼の姿を認めるなり、女は驚いたように瞬きを数度繰り返し、すぐに表情を曇らせた。まだ起きちゃ駄目じゃないかと小言を言いながら、茂みをかき分けて歩み寄って来る。
 言葉を聞き流しながら、彼女が小脇に抱えた篭に目を落とす。藤で編まれた篭の中には、赤い果実が一杯に詰め込まれていた。
 不躾な視線に気付いたのだろう。木いちごだ、と女は笑う。この実を煮てジャムを作るつもりなのだそうだ。聞いてもいないのに、女はあれこれと説明をしてくる。語る言葉に大して興味はなかったが、果実には目を奪われた。
 赤く売れた実。でこぼことした表面は所々潰れていて、その有様は肉塊を思わせる。したたる汁、ぐじゅぐじゅと潰れた実――それらは、腐りかけた肉と、よく似ている。
 こんなものを山ほど集めるなんて、この女はどうかしているんじゃあないか。彼は訝しげな眼差しで、女を見る。女は晴れやかに笑っていた。おいしそうでしょう、などと宣うが、冗談じゃない。
 つい先頃まで彼の腕に開いていた傷口に、そっくりだ。裂けた皮膚から覗く肉と似ている。藤の篭を濡らす赤い汁は、先頃まで彼が塗れていた鮮血と、同じ色ではないか。
 あまりの醜悪さに気分が悪くなって、彼は目を逸らした。だが逸らした先には、その木いちごの茂みがある。血だまりが点々と広がっているような錯覚は、夢の中で見たおぞましい光景に似ていて、途端に背筋に悪寒が走った。
 茨の薮の中に点々と実る果実。赤く、あるいは赤黒く熟した色が、自分に向かって迫ってくるような気持ちになって、たまらなく恐ろしい。
 だが、駆け出そうとした時、彼を留める腕があった。振り返ると、そこに、あの女がいる。女は彼の腕をやんわりと握っていた。ここで走ると、苺の薮で怪我をするから。そう呟いて、女は指先でつまんだ苺を、彼の口の中に押し込んだ。
 一瞬の出来事で、拒むことも出来ない。気が付けば彼はあの醜悪な赤い粒を口にしていた。壮絶な嫌悪感に襲われたのは、しかし一瞬のこと。口の中に広がったのは馴染んだ鉄錆の匂いではない。さわやかな香りと強烈な酸味だ。
 思わず顔を顰めると、女が声を立てて笑った。それはまだあまり熟れていないから、今度はこっちを食べてみろと言う。差し出されたのは、ほんのりと黒ずんだ実。今度は口の中に勝手に押し込むのではなく、彼に自分で受け取るようにと促して来た。
 少し躊躇いつつ、彼は彼女の手から果実を受け取る。恐る恐る口の中へ放り込むと、今度は先ほどのものとは違う、やや癖のある香りと微かな酸味、芳醇な甘さが喉を通り抜けた。
 うまいともまずいとも言わなかった、けれど女は彼の顔を見ただけで、どこか満足したようだった。さあ帰りましょうか、と呟いて、篭を抱え直す。彼は黙ってその後に従った。
 女はうまく棘のある藪を避け、山道を下っていった。口の中にはまだ、あの酸味が残っている。


 ふと目を覚ますと、日はとっくに暮れて、部屋中に甘い香りが漂っていた。彼は眉を顰めて、鼻をひくつかせる。そういえば、ジャムを作るのだと言っていたか。彼が久々の外出に疲れてベッドに沈んでいた間に、女は着々と自分の作業を進めていたようだ。
 その時ぱたぱたと足音がして、女が顔を覗かせた。何故彼が目覚めたことに気が付いたのか。それはわからない。女は口元にやわらかな弧を浮かべ、彼に微笑みかけた。
 味見をしてみるか、と問いかけられて、彼はぐっと言葉に詰まる。甘いものは昔から好まない。部屋中に漂うこの甘ったるい匂いにも、辟易していた所だ。
 けれども、女の顔を見ていると、どこか断れないような気持ちになる。期待に満ちた眼差しを向けられて、――けれど、それを疎ましく思わなくなって来ている己に苦笑しながら。
「……もらおうか」
 久々に出した声は、擦れていて、ひどくみっともないものだった。けれども途端に女の顔が紅潮し、綻んだのを見て、そんなことはどうでもいいのかという気になってくる。
 女はすぐに持って来ると言い残して、再び姿を消した。
 部屋に満ちる甘酸っぱい香りが、鼻をくすぐる。けれども、決して不快な気分ではなかった。苺のジャムなど口にするのは、子どもの頃以来だ。味など、とうに忘れてしまった。あの女が作るものは、果たしてどんな味だろう――
 クライドは笑った。女が戻ってくるのを待ちわびながら、密やかに、声を立てて。





............................苺な気分。