その手を


 その報せを受けた時、カイエンはドマの城内を警邏していた。
 広い城内をくまなく見回り、兵の配置や物資の状況はもちろん、末端の兵の装備、体調に至るまでを注視する。広大な城の隅まで巡るのはなかなかに骨の折れる作業だが、平時、彼はそれを欠かした事はなかった。
 平穏な時であっても、否、だからこそ気を引き締めねばならない。一瞬の判断の遅れが、万事の危難に繋がる。――それが彼の持論であった。
 故に、彼は城内においては絶対に気を抜かない。その瞳は常に厳しく周囲に向けられ、些細な変化をも見逃さない優れた洞察力を備えていた。その眼光が鈍る事は、滅多な事ではあり得ない。
 だが、この時ばかりは、彼は完全に任務を忘れてしまった。いかなるときでも念頭にあり、気にかけていた主の存在も、もはや頭からすっかり抜け落ちている。カイエンの思考を占めていたのは、たった今もたらされた念願、それ以上を望むべくもない吉報、
 ――警備中のカイエンを呼び止めた兵によって、伝えられた言葉は、こうだ。
「奥方様がご懐妊であらせられます!」
 カイエンはここ十数年、片時も忘れなかった役目を全て放り出し、天に向けて拳を突き上げた。


 思えば、彼と妻のミナが結婚してから、既に十年近い歳月が経っていた。その時間を十年、と口に出して言うのは容易いが、その実、その時間は彼にとって非常に長いものだったと言わざるを得ない。
 もちろんそれには様々な理由があったが、こと家庭の中の事情にのみ絞って言うならば、原因はひとつしかなかった。――結婚してから今の今まで、子宝に恵まれなかった事である。
 カイエンはその長い長い時の流れに想いを馳せた。これまでの十年、その間の事を思うと、彼の心中に苦々しさが蘇る。
 結婚した当時はカイエンもまだ若く、妻のミナはもっと若かった。二十を迎えて間もなくカイエンに嫁いできたあの日、彼女は美しく、溌剌としていたものだ。その頬は赤く染まり、表情は明るく豊かで、カイエンはそんな新妻を心から慈しんだ。
 しかしミナが嫁に来てから数年もすると、彼ら夫婦を取り巻く環境はそれまでと一変する。――なかなか子どもが出来なかった事が原因だった。
 時が立つほど、徐々に、だが確実にミナに対する風当たりは強くなる。跡継ぎを切望するカイエンの親類が、ミナを正面から石女と罵った事さえあった。カイエンにとってもミナにとっても辛い日々が続く。気付けば十年の月日が経ってしまった。…だが。
 彼はその愁眉を開く。知らず知らず、その表情がだらしなく緩んだ。
(これでもう心配はあるまい)
 そう安堵の息を吐いて、得心したように頷く。
 出来る事ならば今すぐにでも、妻の元に駆け出したいほどだった。しかし彼は必死でその衝動を抑える。まだ、彼の任務は終わっていない。城の見回りが終われば、日が暮れるまで、城門周辺の警備の指揮を執る事になっている。少なくとも決められた時間まで、カイエンはその場にとどまる事を余儀なくされた。
 ――彼は非常に有能で、主たるこのドマ城主に忠誠を誓った近臣である。上司からも部下からも高く評価され、その評価に見合うだけの人格と能力を備えていた。が、この時ばかりはその忠臣ぶりも完全に形無しである。
 無意識のうちにか、にこにこと頬を緩め、ついでとばかりに緊張も解き、カイエンはひたすらに時が過ぎるのを、妻の元に戻る刻限を待った。
 何度も懐に手を入れ、そこから古びた時計を取り出す。彼が以前から愛用している、造りのいい懐中時計だ。カイエンは蓋を開け中を見る度、僅かに顔を歪め、息を吐く。時の流れの遅さに、幾度も落胆を露にした。
 だがそうして項垂れたかと思えば、次の瞬間にはその時計の上部にある肖像を見て、また相好を崩す。妻と彼が寄り添い手を握る、結婚式の様子を写した肖像画を。
 彼が同じ動作を繰り返すのを見かねた同僚は、王の元を訪れ、今日の役目を免じる事を進言する。報告を受けた王は、二つ返事でそれを了承した。
 王じきじきの祝辞と共にその事を伝えられたカイエンは、返礼もそこそこにその場を離れる。あまりの変貌ぶりに動揺する兵や臣を尻目に、彼の足取りは恐ろしく軽い。ばたばたと慌ただしく城内を走り抜け、ミナがいるであろう部屋の扉を思い切り開いた。同時に大声で妻を呼ぶ。
「ミナ!」
 その呼び声に応じて、椅子に腰掛けた女がゆっくりと顔を上げた。カイエンと目が合うと、栗毛の髪をかきあげながら、彼女が微笑む。
「あなた。お帰りなさい。早かったのね」
 言いざま、腰を浮かしたミナを、カイエンは慌てて制止した。
「ああ、いいから。座っていなさい」
 するとミナはくすりと笑う。
「そんなに心配しなくても平気よ」
 困ったように眉を寄せた彼女を見て、カイエンもまた苦笑した。照れ隠しに頭を掻きながら、ミナの座る椅子に歩み寄る。
 跪いて、膝の上に揃えられた妻の手を取った。その手を両の手のひらで包み、感慨深げに呟きを洩らす。
「やっと、か」
 カイエンの頭上で、ミナが息を吐きながら笑んだ。見上げたカイエンを真っ直ぐに見返しながら、ミナが口を開く。
「ええ。待たせてしまって、ごめんなさい」
「何を言うでござる」
 呆れて溜め息をつけば、ミナは無言のまま瞼を伏せた。カイエンの掌の中で、彼女の指にわずかに力が入る。カイエンはまた嘆息した。
「とにかく…良かった」
 ミナが小さく頷く。カイエンは彼女の膝に顔を埋めた。慣れた体温。カイエンはふと思い出し、顔を上げてミナを見る。
「ああ、そうだ」
 ――結婚して間もない頃から、ずっと考えていたことがあった。
 首を傾げるミナに、彼は穏やかな微笑みを向ける。 
「子どもが産まれたら、肖像画を書いてもらうでござるよ」
「肖像画?」
 問い返してきた妻に、カイエンは苦い気持ちで懐に手を入れる。
「もう十年も昔のものになってしまった」
 その肖像画を時計にはめ込んだ時、カイエンはそれをミナに見せて、笑った。
 ――これで、いつでも一緒に居られるでござるよ、と。
 四六時中そばにいるわけにはいかない。それでも、この肖像を見て、お前の事を思っている。
 言外にそう含みを込めれば、ミナは嬉しそうに頷いた。
 あの日から十年。肖像のミナと、今カイエンの目の前に居るミナは、印象が随分と違う。――今の今まで気がついていなかったが、こんなにも変わってしまっていた。
 何故気付かなかったのか。自問して、すぐにいくつもの理由が思い当る。
 いずれも大したことのない理由――あるいは言い訳ばかりだ、とカイエンはそのときようやく自覚する。そうして顧みなかった己と、それまでの時間を後悔した。
「…これからは毎年、描いてもらおう」
 彼は呟くと、愛妻の手を握りしめる。彼の無骨さとは、あまりにもかけ離れた細く柔らかな指。結婚を申し込んだあの日も、こうして傷つけないように、いたわりながら力を込めた。その事を懐かしく思いながら、カイエンはその指先をじっと見つめる。
 その手は、彼女が少女だった頃に比べ、やはり少し節くれ立った印象がある。あの頃は丁寧に磨かれていた爪も、今はそれほど手入れはされていない。なめらかだった皮膚も、年を重ねた為か家事に追われる日々の為か、荒れていた。
 だがその手触りは変わっても、それが愛おしい妻の手だという事は変わらない。彼は両の手のひらでその手を包み、犒うように何度も何度も撫で擦った。
「産まれて来る子どもと、ミナと、拙者と。皆一緒にでござる」
 慌ただしく過ごした長い時間。変化に気付く暇さえなかった。その事をカイエンは後悔している。だからこそ、と心に誓った。この次は、ちゃんと毎年、絵を注文しよう。産まれて来る子どもとともに、一年一年をちゃんと刻もう。――そう、誓った。
 ミナが息を吐く。
「そうね。きっと、描いてもらいましょう」
 答える彼女に、カイエンは顔を上げ、笑った。微笑みを返すミナの顔がカイエンに近づく。彼女は愛おしげに、彼の額に口付けた。


 そうして時が経ち、彼の懐中時計には新しい肖像が嵌め込まれる。
 中央で眠る嬰児、以前の肖像より十年分老け込んだ彼と、妻。
 年を重ねるごとに描き直される家族の肖像、しかし繋がれたその手は変わらない。彼らの時間が止まる日が来ても、なお。




............................その手を。