夢の夢の
ある曇りの日の昼下がり、その時彼は初めて彼女の翼を目にする。
それを見た一瞬、風を切り雲を縫って大空を泳ぐ白い鳥だと、まずそう思った。
だが次の瞬間に、鳥などではないと気付く。大きさからして、あり得ない。あまりにも巨大であり、重厚な質感も陽を照り返す表面も、所々覗く鉄の部品も、それが機械、――飛空挺であることを示している。
セッツァーは己の目を疑った。
自分の持つ物以外に飛空挺がある事にも驚いたが、なによりも、そのスピードに目を奪われる。――速い。
後方から追い上げたその機体は、あっという間にセッツァーの船を抜かし、ぐんぐん距離を離していく。そして彼が瞬きをした一刹那に、雲の合間に消えていった。
幻でも見たのだろうか。自問して、すぐに否定する。夢でも幻でもない。
セッツァーは舵を取る。先ほどの船が消えた方角に向かった。雲に入り、あの白い影を必死に追う。何故そうするのかわからなかったが、不思議と追わなければならないと思った。
雲を抜けると、その先には連なる山脈と緑の平原、広々とした海原が見える。それから、家々が並ぶ市街地が視界に入った。世界地図上最も西方の都市、ジドールである。
その美しい屋根の並びからわずかばかり離れた平地、そこに、あの白い翼がとまっていた。
近くに降り立ち、セッツァーは傍らの巨大な船を見上げた。白銀色に陽を照り返す機体に目を奪われる。流れるような美しいフォルムに、思わず見とれた。
しばしその船を眺めてから、彼は思い出したように市街地へと足を向ける。あの船の持ち主がいるとすれば、どこか――ざっと見当をつけながら、彼は街に入った。
あんな場所に船を停めておくくらいだから、この街が持ち主の拠点という訳ではないだろう。一時的に立ち寄っただけなのだとすれば、行く場所は限られている。
そう考えて、セッツァーはまず、宿屋に向かった。カウンターの掃除をしていた若い女に気安く話しかけ、それらしい人物がいないか問いかける。彼女は首を横に振った。セッツァーは彼女への礼もそこそこに、早々に宿屋を出る。
宿にはいない。この街に一泊する気すらもないらしい。そうなると、後は。
不意に浮かんできた考えに、セッツァーは足を早めた。この街には一箇所、流れ者がわざわざ立ち寄る価値のある場所がある。人と金と、それから名品や掘り出し物が集まる場所。セッツァーも何度か訪れ、利用した事がある。――競売場だ。彼は雑踏を抜け、真っ直ぐに目的地を目指した。
町の中心部にあるオークション会場、彼はその扉を勢い良く開く。大きな音が立ち、扉の近辺に居た数人が振り返った。彼はそれを気にした風もなく、会場内に入っていく。大勢の参加者の喧噪が、彼の耳を刺激した。
前方の舞台では、なにやら美しい宝石が競売にかけられているようだった。値を叫び、競い合う人々。無表情でその場を取り仕切るオークショニア。そして、落札。同時に、悲喜交々の溜め息が、会場の端々で洩れた。
セッツァーはそんな光景には目もくれず、じっくりと参加者を観察する。身分や地位の差はもちろん、老若男女様々な人が会場には集まっていた。
いかにも成金と言った風体の小男、チンピラ風の青年、中央でふんぞり返って座っているのは、どこぞの権力者の奥方だろうか。そのでっぷり太った指、燦然と煌めくいくつもの指輪に、セッツァーは思わず苦笑した。
注意深く、ひとりひとりに視線を巡らせていく。と、その時、セッツァーの目が止まった。最も端の席に、女が一人座っている。
その女は黒いコートを身に纏い、ゆったりと椅子に腰掛けていた。特別奇抜な格好をしているわけでもないのに、不思議と視線が吸い寄せられる。長い金の髪、通った鼻筋、キツい印象の目と、赤い口紅。美人だ。肘掛けに軽く凭れ、足を組んで、その女はそこに、居た。
これといった理由はなかったが、彼は直感する。――あいつだ。
かの飛空挺の持ち主の事など、もちろんセッツァーは何も知らない。男か女か、若者か老人か、そんな事はもちろん、知らない。だが、彼の勘は、その女が目的の人物だと告げている。理由がわからなくとも、彼は自分自身の直感に自信を持っていた。そもそも直感とは、言葉で説明出来るだけの立証材料は持たないものだ。
セッツァーはなにげなく彼女のそばに歩み寄ると、隣の席に腰掛ける。やわらかい布張りの椅子に体重を預けた瞬間、ほんの一瞬だけ、女がちらりと彼を見た。セッツァーの目と、彼女の深い色の瞳が合う。しかしすぐ、彼女は興味もなさそうに視線を前方に戻してしまった。そのまま微動だにもせず、真っ直ぐに前を向いている。
彼女は、競売を無言のまま見守っていた。あるいは、何か商品が出て来るのを待っているのかもしれない。彼女の目は、熱心に成り行きを眺めているようにも、ただ無関心にぼんやりしているだけのようにも見えた。どちらなのかは、セッツァーにはわからない。わかるのはひとつ。――競売場に席を取ってはいるが、少なくとも今回の商品に興味はないのだろう。彼女の様子から察するに、それだけは確かだ。話をするなら、タイミングとしてはこれ以上を望むべくもない。
さて、なんと言って切り出したものか。僅かに逡巡してから、セッツァーは口を開く。
「いい船だな」
その言葉が最も彼女の気を引けるだろう、という予想だった。なんの確信もないままに選んだ言葉だったが、果たして彼女は驚いた表情で振り向き、続いてにやりと口の端を上げてみせる。
セッツァーは心中でほくそ笑んだ。当りだ。やはり、この女があの船の所有者である事は間違いない。
「…ありがとう」
彼女はどこか不敵な笑みを浮かべると、セッツァーを真っ向から見据えた。真っ赤な唇から発せられた声は、思っていたよりも若々しい。
「でも、船、なんて野暮な言い方は止めてくれる?」
「?」
セッツァーは首を傾げる。女は可笑しそうに目を細めて、続けた。
「翼、よ。私の」
つ・ば・さ、と強いアクセントを置いて、彼女は言った。ふと、彼女がかきあげた髪から、ほのかな香水の香りが漂う。会場の籠った空気に慣れた鼻孔を、甘い香気がくすぐった。
女に誘われるがまま、セッツァーは連れ立って競売場を後にした。
用があったんじゃないのか、と問えば、彼女は軽く肩をすくめる。大した用じゃない、それよりもこちらの方が面白そうだから――こだわりのない口調で言い放つと、彼女はセッツァーに先立ち、大股で颯爽と歩いていく。
彼女は、かなりジドールに慣れているようだった。迷わず路地を進み、馴染みらしい酒場に入ると、当たり前のようにカウンターに向かい腰掛ける。顔見知りらしい店員に、寛いだ様子で酒と肴を注文した。そこで、思い出したようにセッツァーを振り返り、問いかける。
「あなたも飲むわね?」
「真っ昼間からか?」
非難まじりの彼の言葉に、女は豪快に笑う。
「いいじゃない。どうせ陽なんて、すぐ沈むわ」
大仰な動作で肩を竦める彼女に、ひげ面の男――この酒場の店主が、そうそう、と間の手を入れた。彼女はグラスを磨いていた店主にウィンクを投げる。からからと大笑する店主につられて、セッツァーも思わず噴き出した。
「…もらうよ」
あきれ果ててそう言うと、女が満足そうに頷く。セッツァーは彼女の隣に腰掛け、店主の出してきた酒瓶を傾けた。氷の中に少量の酒を注いで、まずは軽くグラスを合わせる。
「乾杯」
彼女は、何に、とは言わなかった。だからセッツァーは独り、心中で付け足す。強いて言うなら、出会いに、だ。しかしそれを口には出さなかった。なんとなく、笑われそうな気がする。事実、女はそれを聞けば笑っただろう。
彼女はセッツァーを特別気遣う風もなく、グラスを口に付け、ひとくち嚥下する。セッツァーもそれに倣おうとしたが、陽はすぐ沈むと言われても、今はまだ日暮れ前だ。流石に気が乗らず、舌先で舐めるだけにとどめた。
「…ところで」
不意に女はグラスを置くと、セッツァーに向き直って瞳を輝かせる。いたずらっぽい表情で彼を覗き込み、続けた。
「さっきのあれは、あなたね」
「ん? ああ」
あれ、という言葉が何を示すのか、すぐに見当がついた。セッツァーは自分のグラスを軽く手の中で玩びながら、頷く。一度肯定してから、思い直して言い改めた。慎重に言葉を選んで答える。
「俺の『翼』…だな」
やはり、つばさ、に強いアクセントをつけた。それを聞いて、女が軽く息を吐く。笑ったようにも聴こえたし、溜め息のようにも聴こえた。
セッツァーは女の顔を見遣る。彼女は初めて会った時のように口角を上げ、目を細めて笑っていた。
「翼、…か」
女がグラスを取り、ゆっくりと傾ける。氷がからりと涼しげに鳴った。彼女は一気に残りの酒を飲み干すと、今度は深く息を吐き出す。グラスをテーブルに戻しながら、セッツァーに視線を戻し、彼の両目を真っ向から射抜く。
「でも見た所、それほど速くはなさそうね」
からかうような口調で言われた言葉だったが、不思議と腹が立たなかった。セッツァーは芝居がかった動作で、肩を竦める。
「まだ慣れてなくてな。手に入れて日が浅い」
女がくすりと噴き出した。
「まだ雛ってわけ」
可笑しそうに笑う彼女に、少しだけ憮然とした表情を作りながら――しかしその実、自分でも奇妙に思うほど上機嫌で、セッツァーは答える。
「そうだな。どう羽ばたけば早く飛べるのか、まだまだ練習中だよ」
ふうん、と女が相づちを打つ。全く関心のなさそうな声色だったが、女の表情を見れば、心中はそうではないと知れた。いや、顔というよりも目、だろうか。
セッツァーは、空になったグラスに酒を注ぐ女を、まじまじと眺める。きらきらと輝くその目には、覚えがあった。
喜色をたたえて煌めく瞳――それは船、あるいは翼に乗り、空を望む彼自身と、おそらくは同じだ。そんな事を考えながら、彼は手中のグラスの酒を呷る。
そうして名も知れぬ女と思いつくままに語り合い、気付けば窓から見える空はすっかり暗くなっていた。入った時には人気のなかった店内も、今は喧噪に包まれている。店内のそこかしこで、酔っぱらい達がめいめいに騒ぎ、飲み、笑っている。
セッツァーと女の座るカウンターの上には、すでに空になった瓶が一本。もう一本の瓶も、半ばほどまで空けられている。その大半は、女の体内に収まっていた。
かなり酒が入ったせいか、時間が経つほど、彼女は少しずつ饒舌になり始める。ほんの僅か紅潮した顔をセッツァーに向け、女は熱っぽく話し続けた。話題は、専ら彼と彼女の翼の事である。それ以外の事は何も聞かなかったし、聞かれなかった。
「…操舵の技術だけじゃなくて、手入れも大切ね」
「手入れ、ねえ」
『雛』であるセッツァーは、彼女の言葉にこれといった意見も是非も述べず、多くは無意味な相槌を返す事しか出来なかった。だが、多少なり酔いが回った女はそれを気にしているのか、いないのか。講釈をたれるように――あるいは、実際雛に講釈をしているつもりなのかもしれない――『翼』について、様々な話題を次々に持ちかける。
「まずはとにかくマトモな整備士を入れる事よ。自分でもある程度把握出来ていれば、言う事ないけれど」
いずれにせよ、彼女はそう呟いて、満足げな表情で独り頷いた。
「翼は、とてもデリケートなものだから」
彼女がまたひとくち、酒を口に含む。白い喉が上下するのを、セッツァーはぼんやりと眺めた。
その視線に気付いたのか、女が横目でセッツァーを見遣る。慌てて視線を逸らそうとしたが、間に合わなかった。女は瞳だけで笑む。グラスを口元に当てたまま、笑い含みで彼女は続けた。
「でも、丁寧に愛してやれば、翼は夢を見せてくれるわ」
これに、セッツァーは首を傾げる。
「夢?」
問いかけると、彼女はグラスを置いて、体ごとセッツァーに向き直った。
「そう。――あなたも知ってるはずでしょう?」
彼女は微笑った。僅かに火照った顔が、酒場の薄暗い照明に照らされて、光る。
「夢のまた夢。地べたを這いつくばる人間には見る事が出来ないはずの、素晴らしい世界を見せてくれる…」
「夢…」
うっとりと夢見るように語られた言葉が、セッツァーの内に響いた。口の中で転がすように、その単語を繰り返す。彼女が言う夢とは何の事か、考えるまでもなく理解出来た。
「――まあ、ひよこのあなたには、難しい話かしら?」
女は自分の言葉を茶化すように、軽口を叩く。これには、さすがにセッツァーも苦々しく顔を歪めた。それを見て、女が軽やかに笑う。
そうして一通り彼をからかってから、女は先ほどから中断していた講釈を再開した。
眠気が訪れる暇もないほど、彼らは様々な事を語り続ける。夜は更け、ひとり、また一人と店内から客が消えていった。セッツァーが気付いた時客は半分ほどにまで減り、更に再び意識した時には、すでに片手で数えられる数にまで減じている。そのほとんどはテーブルに突っ伏して、大小様々の鼾をかいていた。
同時に、店内が妙に明るくなり始めている事にも気付いた。セッツァーの表情の変化から、女もそれを感じ取ったのだろう。椅子に腰掛けたまま、ひとつ大きく伸びをする。
「ああ、もう夜明けね」
そうだな、とセッツァーは軽く瞼を擦った。今頃になって、体が気怠い。ほのかな眠気が体を取り巻くのを感じて、それに抗うように上半身を反らし、体を伸ばした。
と、その横で彼女が立ち上がる。椅子の背に掛けてあったコートを取ると、手早く羽織った。
「帰るのか」
彼の問いかけに、女は鼻を鳴らして、嘲笑にも似た笑みを浮かべる。
「帰る? …まさか」
セッツァーは瞬いて彼女を見た。女は頭上を振仰ぎ、まるでどこぞの舞台女優のように腕を広げてみせる。そして台本を読み上げるように、わざとらしい口調を作った。
「飛んで行くのよ。どこまでも」
その大げさな言い様に、セッツァーは豪快に噴き出した。女もまた、腹を抱えてくすくすと笑いを洩らす。しばし顔を見合わせて笑った後で、彼女はふと真顔に戻ると、
「あなたは? 帰る場所はあるのかしら?」
と問いかけた。これに、セッツァーはかぶりを振る。――帰る場所など、ない。これからどこにいくか、どうするかも決めてはいなかった。
「いや、別に」
彼は特にひねりもなく、正直に答えた。それは、彼女としても予想していた返答だったのかもしれない。特に気に留めた風もなく、そう、とだけ呟いた。
「――また、どこかで会えるといいわね」
女は言いながら、軽く髪を梳き、整える。簡単に身なりを正すと、コートのポケットから金貨を取り出し、カウンターに置いた。そしてそのまま踵を返し、歩き出す。
セッツァーは無言でそれを見守った。またどこかで。そう、多分、会えるだろう。そう思ったから、敢えて引き止めようとはしなかった。乾いた木の床に、ヒールの高い靴独特の足音が響く。それを聞き、彼女が店の扉をくぐった瞬間、――大事な事を思い出して、弾かれたように、立ち上がった。
女を追って店を出ると、声を張り上げて問いかける。朝日がひどく眩しい。手をかざして日差しを避けながら、セッツァーは彼女の後ろ姿を見つめる。大切な事を、聞いていなかった。
「おい! お前、名前は?」
ぴたりとその場に立ち止まって、女がゆっくりと振り返った。その顔は、初めて話しかけた時と同じ、不敵な笑みを浮かべている。
「…知りたい?」
彼女は勿体ぶって聞き返してきた。セッツァーは軽く息を吐きながら、殊更平静を装うような心持ちで、頷いた。
「そりゃ、一応はな」
「――なら、来なさい」
「?」
セッツァーは首を傾げた。女が続ける。
「競争よ」
「ハ?」
思わず、疑問の声が上がった。だが女はそれすらも楽しんでいるように、笑みを深くする。
「私に追いつけたら、教えてあげる。駄目なら教えてあげない。――決まりね」
「お、おい!」
再び歩き始めてしまった彼女の背を目線で置いながら、セッツァーは深く嘆息した。
「マジかよ…」
予想外の彼女の提案に、思わず額に手を当て、空を仰ぐ。まさかそんなことを言われるとは思っていなかった。名前くらい、普通に教えてくれてもいいじゃないか。心中で、そんな不満が募る。しかしそれを口に出す事が出来ず――口に出せば鼻で笑われて、この先一生名前を聞き出せなくなるように思ったからだ――、仕方なく、彼は彼女の後に従った。
「あ、そうだ」
そんなセッツァーの様子を気に留めず、女がはたともう一度足を止めて振り返る。
「ねえ、一つ教えてあげる」
「なんだよ」
憮然とした面持ちのセッツァーに、彼女は明るい声で告げる。
「私の翼の名前。――ファルコンよ」
これに、セッツァーの足が止まった。
「ファルコン…」
小さな声で繰り返す。彼女は満足そうに微笑んで、セッツァーに歩み寄った。触れられるほど近くまで来ると、小首を傾げながら、尋ねてくる。
「あなたの、翼は?」
セッツァーは息を呑む。
彼のつばさには、名前はまだついていない。もし名前を付けるならば、これにしようと思っていた名前はある。
だが――
「…教えるかよ」
彼がが呟くと、女が意外そうな表情を見せた。セッツァーは底意地の悪い笑みを浮かべる。自分よりも身長の低い女を見下して、告げた。
「俺に勝ったら、だ。そうしたら、教えてやる」
「…言うわね」
セッツァーの挑戦的な態度に応えて、女が晴れやかに笑う。
「上等じゃない」
そうしてセッツァーが彼女の名前を知る事が出来たのは、それよりも大分あとの事。勝てた訳でも追いつけた訳でもなく、哀れんだ彼女は情で教えてくれた。
この件以来、セッツァーは翼の見せる夢だけで満足する事を止め、自分自身で新たな夢を掲げることになったのだが――
それはまた、別の話だ。