明日の空


 その夜、マッシュは霊峰コルツから、一人南の空を見上げていた。
 険しい山脈の草木をかき分けて登った先、ほとんど頂上に近い地点である。そこは空気も薄く足場も悪い為、最近では専らその辺りを修行の場として利用していた。
 普段は彼の師、ダンカンと共に鍛錬を積んでいたが、今は不在である。理由は聞いていない。ダンカンはマッシュに一通りの訓練メニューを課すと、日が頂点に昇りきらぬ内に下山した。
 それからマッシュは、一人黙々と師に言われた通りの修行を片付け、以後も自主的にトレーニングを続けた。日が落ち始めた頃にようやくその足を止め、今、こうしてぼんやりと空を見ている。
 彼が腰を下ろすのは、コルツでも一二を争うほど、見晴らしのいい高台だった。北方は岸壁がそびえているために様子は分からないが、他の三方向は何にも遮られていない。そこからは遥か南方にサウスフィガロの町並みを、その向こうには水平線を見る事が出来た。
 そして当然の事ながら、空も広々と見通せる。マッシュは、西の地平から洩れる残陽の朱と、東方を染める紫黒への美しいグラデーションを望んだ。落日の痛いほどに鮮やかな明、そして全てを飲込んでしまうような深い闇の暗に、マッシュは知らず眉をひそめる。
 瞬間、不意に彼の視界の隅で、きらりと何かが光った。思わず目を凝らす。
 それまでの経験から、星が流れたのだと判断する事は出来た。が、その光芒を瞳で追おうとした時にはもう、その残像すらも捉える事は叶わない。
 不意にマッシュの脳裏に蘇る言葉があった。
 ――流れ星は果報の兆し。星が流れた時に願い事を唱えれば、それは叶う。彼にそう教えてくれたのは、兄のエドガーだった。
 あれはまだ、ふたりが幼かった頃の事だ。ふたりで城の見張り台から夜空を見上げ、兄は星座を探し、マッシュはただその美しさに見惚れた。砂漠の空は、ここよりも色が深く、しかしそれ故に星が美しかったのを覚えている。流れ星も、ここよりはずっと多かった。
 彼らはふたりでたくさんの願い事をかけた。どちらが多く流れ星を見つけて、多く願い事を言えるか、競争したものだ。その事を思い出して、マッシュは頬を緩める。
 懐かしいと改めて思う。今から三年も前に兄と別れて城を出て、以来一度も会っていない。血を分けたただひとりの兄であり、今となってはただひとりの肉親となったエドガー――
「…どうしているかな」
 あの兄の事だ。なんとか巧くやっているだろう。そうは思う反面、呟いたマッシュの表情は硬い。わずかに髭の伸びた顎をせわしなく撫で、肩越しに東北の方角に目を向ける。
 そこからは遠い山並みに阻まれて、彼の故郷であるフィガロの城を望見する事は叶わない。代わりにマッシュは目を閉じた。三年の月日を経てなおありありと瞼に蘇る、あの壮大な城の景色――そして兄の顔。
「兄貴」
 兄がどうしているのかは知らない。三年前とどのように変わったのかも、当然わからなかった。だが、噂くらいなら耳にすることが出来る。先日聞いた噂を思い出し、マッシュは溜め息を吐いた。
 目を開いて、再びフィガロの方を見つめる。陽はあっという間に沈み、辺りは既に闇に包まれようとしている。目を向ける先には、ただ暗い影となった稜線がある。その色は、マッシュの胸に不安を生んだ。
 どうしているかな。呟く言葉は強風に流され、誰に届く事もない。



 その夜、エドガーは普段よりも早く居室へと戻った。
 カーテンの隙間からのぞく空は、まだ薄明るい。エドガーは堅苦しい衣服を脱ぎ、いくらか簡素なものに着替えた。きつく結った髪を解いて楽に結び直しながら、南向きの小窓に歩み寄る。
 エドガーは知る由もない事だったが、その時丁度彼の弟も同じように空を見上げていた。そして、視界の隅でちらつく光。弟が見たのと同じ星を、エドガーもまた目にする。鮮やかに燃えて、尾を引いて落ちた一本の白い筋。
 ――流れ星は果報の兆し。星が流れた時に願い事を唱えれば、それは叶う。彼にそう教えてくれたのは誰だったか。エドガーは考えてみたが、思い出す事は出来ない。ただ、それを弟に教えた時の事は、今でもはっきりと覚えていた。まだ十にも満たない子どもの頃――弟は、それを覚えているだろうか。ふとエドガーの胸にそんな疑問が過る。
 と、その時何の前触れもなく、彼の背後の扉が開かれた。エドガーが振り返る。この寝室に遠慮なく入って来る者など、今の所ひとりしかいない。彼は微笑む。そして、扉の向こうから彼女が現れるのを待った。
「あら。もうお戻りでしたか」
 入室するなり驚いて口を開いた彼女、そしてその心外そうな声音が可笑しい。エドガーは笑い声を洩らしながら、軽く手を上げた。
「やあ、ばあや」
「こんなに早く戻られるなんて、珍しい事もあったものですね。城内の娘は、全て口説き尽くしてしまわれたのかしら?」
 ばあや――正確には神官長の立場にある初老の女性は、エドガーの傍らに歩み寄る。さらりと発せられた小言を、彼は聞こえなかった振りをして流した。何も気付かぬ素振りを作って、窓の外に視線を戻す。
「さっき、流れ星を見たよ」
 とぼけてそう呟いた。半ば独り言のような小さな声だったが、ばあやは耳聡く聞き取って、その表情を輝かせる。
「まあ。こんな小さな窓から? それもまた、珍しい事ですこと」
 良かったですね、と微笑む彼女に、エドガーは苦笑する。良かったのかどうかはわからなかった。
 ――流れる星は、凶兆だ。星が流れる時にかけた呪いは、必ず成就する。いつかどこかで、誰かにそう教えてもらった事がある。これも、どこの誰に聞いたものかは定かではない。
 いずれにしてもエドガーは、もう一つの事柄とは違い、それを弟には話さなかった。
 全く正反対の教え。どちらが正しいのかなど、彼には判断する事が出来ない。果たして今、この日に、星が流れたのはいい事なのか悪い事なのか。
 彼は嘆息する。考え始めると、何故だか悪い方へと進んでしまう気がして、慌ててその思考を振り払った。――考えた所で、わからない。
「そういえば」
 ふと、ばあやがエドガーの顔を振仰いだ。彼はなるたけ平静を装って、その視線を受ける。互いの目を間近で見つめ合ったまま、彼女が言葉を続けた。
「あの件は、どうなりましたか?」
 その問いに、エドガーがぐっと息を飲む。あの件、という言葉が指すのは、少なくとも今この時はただひとつだった。エドガーの顔が見る見るうちに曇り、彼女はそれを見て悲しげに眉を寄せる。
「まだ、お心は決まっていないのですね」
「……」
 彼は答えない。応えて言うなら言葉は是、だがそれを口にする事が出来なかった。代わりに、僅かな間を置いてから、別の事を呟く。
「どうすることも出来ないのか」
 彼の口からぽつりと発せられた疑問。エドガーにしてみれば、その問いかけは誰に向けたものでもない。自分自身でも、ましてばあやにでもなかった。言葉は受け手を得る事が出来ず、虚しく宙に消える。代わってばあやの長い長い溜め息が聞こえた。
(わかっている)
「どうすることも出来ない…」
 あの件、とは、数日前からエドガーが頭を悩ませている一つの問題を指す。
 彼の顔が見る見るうちに険しいものへと変わっていく。噛み締めた奥歯が音を立てて、その事が彼女を驚かせた。



 マッシュが、今、殊更に兄を案じているのには、理由がある。
 それは3年前、彼らの父である先王が崩御する直前、フィガロが帝国と同盟を結んだ事に端を発した。帝国の非道さは、フィガロの民も当然知る所である。故に当時、帝国との同盟に反対しての暴動が、サウスフィガロの街を中心に頻発していた。
 マッシュの師は、サウスフィガロに家を持つ。滅多に寄ることはなかったが、それでも師の妻を通じて師に、そしてマッシュに街の様子は伝わってきていた。
 暴動は最近ようやく沈静化の兆しを見せ始めたが、水面下ではまだ火種は燻り続けている。そんな中、率先して叛徒を扇動し、暴動の計画の参謀も務めたという、ひとりの男が捕縛された。
 マッシュはその男について、それ以上の事を何も知らなかった。名前すらも知らない。知っているのは、ふたつ。――フィガロ城に捕らえられた男は、裁判で極刑に処されると決まった事。だが、その刑の執行に当り、肝心の王の裁可が得られていないという事、そのふたつだった。
 フィガロでは、罪人の刑は裁判に寄って定められ、執行される。ただし、極刑に当っての場合は、王が直接裁可を下さない限り、刑の執行は出来ないのだ。それはかなり古くに定められ、少なくともマッシュの知る限り、法が破られた事はない。
 マッシュの心配の種は、ここにある。裁可がないという事は、つまり王――マッシュの兄がその判決をよく思っていない、あるいは納得出来ていないという事だろう。その理由、意味を思うと、どうしても心に不安が募った。が――
 ふと、マッシュは眉を寄せ、首を振る。
 最近、こうして気付けば兄の事を考えている。その事が決して誉められた事でない事は、マッシュ自身が最も良く知っていた。
 かつて、兄の選択とは違う道を選んだのは、マッシュの方だった。
 しかし、どうしても、頭から嫌な考えが抜けない。兄に対して不審を持っているわけでは当然なかったが、ただ、不安だった。
 今も迷っているだろうか。なにを考えているのだろう。ここ数日、マッシュはいつもその事ばかりを考えている。だが、兄の元を訪う事は出来ない。そうしないと決めたのは、他ならぬマッシュだからだ。
(兄貴…)
 何も出来ぬ己が歯痒い。それを選んだのが己である事が、彼を縛り付ける。マッシュはただ心中で兄を呼んだ。少しでもその事が兄の力になるよう願いながら、しかし意味は成さない祈りだと知りながら。
 兄はいま、ひとりで苦しんでいるだろうか。マッシュは悲痛な心境で、星を視る。



 エドガーは遠い空の下、双子の弟がそうしているように頭上を仰ぐ。そうして思い返した。あの男と対峙したのは、ほんの数日前の事だ。
 現在も城の地下牢に拘束されているその男は、国王たるエドガーを前にして、堂々と名乗りをあげた。
 男は言う。自分は反帝国組織リターナーに属し、帝国への断罪を望んでいる。今回はフィガロの正義のために、自ら血に塗れ剣を取ったのだ、と。その後で、帝国との同盟を結んだ先王とエドガーを罵った。何故帝国なぞと手を結んだか。フィガロ二百年の歴史と、その道義は地に落ちた、恥を知れと。
 そう言って唾棄する男に、その場に居合わせた家臣たちは揃って怒りに体を震わせた。顔を紅潮させ、エドガーが制止するのも聞かず、男を思い切り殴りつけた者もいる。だが彼は殴り足蹴にされてもなお、義を説こうとした。
 その時の男の腫れ上がった顔、しかし生気を失わず強い光を宿した瞳は、エドガーの脳裏に焼き付いて離れなくなった。それが、今も彼を悩ませている。
 その一件以降、男の処遇に付いて何度も議論が行われた。臣は口を揃えて言う、犯した罪は重く、酌量の余地はない、極刑が妥当である。しかしエドガーはそれに賛同する事が出来なかったのだ。
 方法はどうあれ、あの男がこの国の事を思っていた事は事実で、それは痛いほどに伝わった。
 それなのに、殺さねばならないのか。他に道はないのか。だがそう言っても、誰も首を縦に振らなかった。釈放して暴動が激化する可能性もあると言われてしまえば、反論の言葉は出ない。
 エドガーの意思とは無関係に裁判が開かれ、男の処遇は決定的なものになる。彼はその認可を下す事を迫られたが、どうしても出来なかった。男の言葉と、あの目が脳裏によぎる。瞳の光を忘れられないから、決断する事が出来ない。
 ただの罪人だと、皆口を揃えて言う。しかしあの男の言葉にも、真理があった。国を思い、フィガロの為に敢えて立った男。同じように国を思うエドガーには、男の想いがわからぬはずはない。叶うならば、見逃してやりたかった、が――
「エドガー様」
 先ほどから押し黙ったままのエドガーを、ばあやが不安げに見上げる。エドガーは力なく笑った。
「わかっているよ」
 口ではそう言ったものの、胸中では釈然としない想いを抱えている。
 弟と別れた日に、己が直面するであろう数々の問題に対して、覚悟を決めた。それ以上の事はその時点ではできなかったし、必要とされてもいなかっただろう。だから彼は、ただ空を見上げ、肚を括る。
 人ひとりの生き死に、生き様に対する感傷は、その時に捨て去った。己を含めた個人の感情や利益よりも、優先すべき事がある。国益を常に見据え、考慮して行動すると、誰にでもない己に誓った。
 そうしてエドガーはは決意を新たに前へ――玉座へ進む。否、進んだはずだった。
 知らず俯いていた彼の肩に、筋張った手が添えられる。
「…そろそろお休み下さいまし」
 エドガーは困ったように微笑むばあやを見つめる。昔、子どもの頃、よくそんな顔をされた。我が儘を言った時に、仕方がないですね、と言いながら望みを叶えてくれた時の表情。彼女はその見覚えのある顔のままで、呟く。
「明日は――」
「ああ。わかっている」
 ばあやが何を言おうとしているのか、エドガーはすぐにわかった。だから彼女が言い終わるより先に頷いて、言葉を遮る。
 どこか心配そうな彼女に、無理矢理笑顔を作って応えた。
「もう休むよ。――おやすみ、ばあや」
「おやすみなさいまし、エドガー様」
 彼女はそう言うと、一礼をしてから退室する。彼女の背を見送って、エドガーは寝台に潜り込む。だが、不思議と目が冴え、結局眠ることは出来なかった。
 まんじりとも出来ぬまま、夜は更けていく。エドガーは嘆息し、起き上がった。
 明日は、彼の誕生日だ。ふと脳裏に大臣の言葉が蘇る。
『二十の誕生日までに、ご決断なさいませ』
 それは、めでたい日に禍根を残さず、成人してからの新しい御代を早々に血で汚すな、という進言だと理解している。全て、フィガロのためだ。
 しかし結局、彼自身が決断を下せぬまま、あと数時間もすればエドガーらが生まれた日がやって来る。
 彼が先ほど見上げた窓を見れば、また、星が流れた。夜空に今は亡き両親と、弟の事を思う。誰かに助けを求めたかったが、エドガーのそばにはもう、誰もいない。
 両親は死んだ。だから彼は今玉座に座っている。弟は今どこにいるか分からない。少なくとも、このフィガロ城にはいなかった。
 だから、彼は今玉座に座っている。――独りで。
 弟は今どこで、どうしているのだろうか。元気だろうか。別れた弟の身を案じかけて、しかし、彼はその想いを振り払う。
 エドガーは深く息を吸って、深く吐いた。肺にたまっていた空気全てを吐ききる。胸が苦しくなっても、まだ吐いた。息苦しさに顔が熱くなって、彼はようやくそれを止める。もう一度息を吸い込みながら、布団を思い切りまくり上げた。同時に、立ち上がる。
 エドガーは布団にくるまっていたそのままの格好に、薄い上着一枚だけを羽織ってから、寝室の扉を勢い良く開けた。
 ――今考えるべき事は、成すべき事は、一つしかない。普段は多くの問題を同時に抱え、同時に対処していかざるを得ない事が多かったから、こんな状態は珍しかった。だからこそ、今まで以上に考え、成さねばならない。己で。出来るだけ迅速に。…否、今すぐに。
「エドガー様!?」
 外に出れば、不寝番の男が驚いた声をあげる。エドガーはその男にちらりと視線をやった。そして告げる。
「…皆を呼んでくれるか」
「は?」
 少なからず動転しているのか、男は間抜けな顔で聞き返して来た。エドガーは苦笑し、言い直す。
「夜中にすまないが、大臣を呼んでおいてくれ。――私は "下" に行く」
「!」
 男の顔が強ばる。対してエドガーは、その柔らかい表情は崩さぬままで、軽く片手を上げた。
「頼んだよ」
「はっ!」
 部下の返事を待たず、彼はその場を離れる。半ば駆けるように早足で、深夜の静まり返った城内を抜けた。そしてたどり着いた場所は、饐えた匂いの籠る、埃が積もり薄汚れた地下の一角。
 見張りの男が腰を上げるのを、彼は手を挙げて制する。その傍らを抜け、並ぶ牢の最奥に足を向けた。それほど固い靴でもないのに、不思議なほど大きく音が反響する。足音で何人かの囚人が顔を上げた。エドガーの向かう先にいた男も、のそりとその身を起こす。
 エドガーは、その男の前に立ち、向き直ってから声をかけた。
「…やあ」
 なんと言えば良いかわからなかった。そのせいか、エドガーの口からはひどく間の抜けた呼びかけが出る。男は苦笑し、短く応えた。
「よう」
 と、その声をかき消すように、ばたばたと数人分の足音が近づいて来る。怪訝そうな男を尻目に、エドガーは動じる事なく、男を見つめ続けた。
 以前会った時よりもやせ細って汚れた体と、ぼろぼろの服。髭は伸びきって、顔は垢塗れだった。しかしその眼光だけは変わらない。その事が僅かにエドガーの心を動かしたが、彼は一度だけかぶりを振る事で、動揺を掻き消した。
 ほどなくして、数人の家臣が男の牢の前に集う。その時には、男も何が起ころうとしているのか、理解していたのだろう。男の目の色が僅かに変じ、輝きが鈍ったように見えた。しかしそれは一瞬の事、すぐにまた男は強い光を浮かべてみせる。薄暗い地下牢の中、その煌めきは一層鮮やかに見えた。
 エドガーは男に苦笑を返す。その意味は、男にもわかっているはずだ。
「悪く思うな」
 短く告げる。男は身じろぎもせず、エドガーを見上げていた。
「これが俺の道だ」
 男は答えない。代わりに僅かに口角を挙げ、皮肉げな笑みを浮かべる。エドガーはしばしそれを見つめた後、無言のままその場を立ち去った。後をついて来る大臣達の靴音が耳に痛い。
 彼はそのまま家臣を従えて玉座に座り、即時に命じた。罪人の刑を執行せよと。時刻はわずかに真夜中前。――ほどなく、彼は二十を迎える。
 エドガーは無理を言って城門を開けさせると、外に出た。城門の外へ一歩出れば、そこからは遥かに砂漠が広がっている。
 ここからの景色は、明け方が一番美しい。エドガーはそう思っていた。
 朝焼けに染まる地平。晴れた日には、砂のひとつぶひとつぶが朝日を弾き、まるで大地自体が発光しているような錯覚すら覚える。眩しくて目も開けられないほどの朝が、この砂漠を最も美しく見せるのだ。
 そう考えた瞬間、ふと、エドガーの心に痛みが走る。夜明けの光、それを二度と見る事のない男がいた。感情の波をとどめようとしたが、それでもその事実はエドガーの心を揺らす。
 ――もう、刑は執行されただろう。
 フィガロの砂に、涙が染みる。だがすぐに、エドガーはその顔を強く拭った。顔を上げたエドガーの瞳には、ただ透き通った空だけが映る。視界の片隅で星が降った。



 翌日の日暮れ前、二十を迎えたマッシュに、師のダンカンが祝福の言葉をかけた。だが、その祝いの言葉の次に、師はフィガロから流れて来たひとつの噂を口にする。
 それを聞いてわずかに心が痛んだが、マッシュはもう、兄を案ずることを止めた。恐らく、今後もうその必要はないのだろうと結論する。ならば、マッシュがすべきことはもう何もない。ここで考えるべき事は、兄の事ではなかった。
 彼がするべき事はこれまでと同じ、何一つ変わらないままだ。そしてそれを果たす事が、自分自身の筋を通す事だとわかっている。
 マッシュは一度瞳を閉じて、深呼吸した。瞼の裏に夕べ眺めた星の光が映る。だが、それも目を開ければ、消えた。いま、彼の目に見えるものは、荒涼とした山の岩肌だけだった。
「マッシュ。始めるぞ」
 言いざま、ダンカンが構えを取る。マッシュも身構えた。
「はい!」
 威勢良く答えたはよかったが、しかしすぐに師の強打を身に受け、倒される。あまりの衝撃に一瞬息がつまり、彼は咳き込んだ。その瞳にうっすらと涙が浮かぶ。
「どうした、終わりか!」
 ダンカンの叱責に、マッシュは慌てて呼吸を整え、腕で顔を拭った。
(まだまだ!)
 仰向けのまま、彼は表情を引き締める。頭上の青を一瞬だけ眺めてから、跳ねるように体を起こした。  その目はもう、空を映さない。ただ、己が向かうべき強大な師の姿と、選択した明日だけが見据えられている。
 コルツの山に、マッシュの雄叫びが谺した。





............................明日の空。