月が泣く
陽が沈み、細い月が空に輝くころ、モグの足が大地を踏む。
固い土の地面に踏み込んだ右足から、激しい震動が伝わっていった。重い地響きが辺りを包む。
彼が更に一歩、今度は左足を打ち付けた。刹那、その揺れがぴたりと止まる。モグはそのまま足を滑らせ、もう一度位置を変えて足を踏み鳴らした。再び起こる鳴動。今度は先ほどよりも、強い。
自分自身の影を辿るようにゆらゆらと動きながら、モグは同じような動作を繰り返した。次第に大きく激しくなる鳴動。やがては、月下の山脈までが蠢く。
彼は鋭く息を吐く。その息が風を呼んで、周囲の空気を巻き込んで小さな竜巻を起こした。それは少しずつ大きくなり、露出した岩肌を削り、砕く。粉々になった砂礫が舞い、彼の体を覆う和毛を汚す。モグは体を震わせて、振り払った。
彼の体が闇の中で蠢く毎に、大地が、世界が、その全てがモグの意識との同調を深める。彼の想いが地響きを起こし、自然の抱く大意がモグの踏み込みを更に強く、力強いものへと変えた。
世界が揺れる。ずしんと重い音が地表に轟き、脈打った。地割れが起こるのではないかと思う程の強い揺れ、――しかし、ほどなくしてその震動は唐突に収まった。
モグは息を吐き出す。彼の意思と大地の意思が、急速に離れた。そして彼は悟るのだ。
まだ、祈りは届かない。
その時彼が踊る事には、意味があった。
願いもなく、望みもなく、踊ってはいけない。それは何も生み出さないから。
そう言ったのは、彼に踊る心を教えた一族の老人。彼は、今、死の淵に居た。
モーグリ族の寿命は、他の生き物に比べれば決して長くはない。でありながら、その老人はすでに人と同じ程の時間を生きた。最長老と呼ばれた彼は、ここ数日眠ったまま、目を覚まさない。皆が口を揃える。――生命が終わる時が来た。どうしようもない事だと。
だがモグにはそれを納得し、死を許容する事が出来なかった。
眠り続け、今にも遠い地に誘われようとしている魂。なんとか呼び戻す事は出来ないだろうか。それだけを祈りながら、彼はもう一度、大地を強く踏みしめる。自然が彼の意思を汲み取り、再びその四肢に力を与える。
もう何度目かになるその試み。彼の息はとうに上がり、全身は気怠く疲れ果てていた。だが彼は、踊る事を止めない。自分自身の願いに、あるいは自然の流れに突き動かされるようにして、半ば朦朧とする意識の中、ただ彼の体だけが動いていた。
一体、もう何度目だろう? あと一体、何度?
どれだけ繰り返せば、祈りは届くのだろうか。わからない。わからないから、彼は立ち止まらなかった。
そしてまた呼び起こされる地震、風、――自然が祈りを伝える。願いを、望みを、悲しみを、哀しみを、誓いを、――祈る、その心を。
届け!!
声にならない痛切な叫び。それは炎となって、彼の内を焦がす。燃やし、灼かれ、その激しさに顔を歪めながら、なお。
――と、その時、モグの肩にやわらかな感触が触れた。驚き、彼は足を止める。同時に、周囲の異変も全て止まり、穏やかな夜が戻って来た。
モグは振り返る。そこには一族の雌、彼にとっては馴染み深い顔があった。彼女の名はモルル。その顔を見た瞬間に、モグの足から力が抜け、その場に座り込んでしまう。
彼女が心配そうにモグの顔を覗き込んだ。彼は力なく笑ってみせる。――大丈夫、ただ力が抜けただけだから、と。
どれくらい踊っていたかはわからないが、かなり長い時間、ああして同じ動作を繰り返していたはずだ。
その証拠とばかりに、彼の体は全く言う事をきかなかった。立ち上がろうと下肢に力を込めようとしても、わずかに痙攣するだけで、思うように動かす事が出来ない。
それを見て取ったか、モルルはモグの体を労るように撫で擦ると、そのまま彼の隣に腰を下ろした。
彼女は特になにも話そうとはしなかった。何か用があるとも言わなかった。しかしモグには、彼女が何をしにここに来たのか予想出来た。何が起こったのかも、わかる。
彼の祈りは届けられなかった。
モルルは相変わらず何も言わない。モグに寄り添って、頭上の灯りを見ている。モグもその視線を追った。
浮かぶのは、細い細い三日月。それは、山猫の爪の引っ掻き傷のように見えた。あるいは、斜面に出来た深い大地の裂け目のようにも。新緑の上を滑る、朝露の軌跡のようにも。身も凍る冷気をも切り裂くような、氷柱の刃のようにも。
色々なものに見えた。それは、今はもう亡い老人に教えられたものだ。その事を、モグは憶えている。この先も忘れる事はない。
彼はふと思う。
そして、自分のやわらかい毛並みを濡らした雫も、きっとあの月の形によく似ている。
きっと、よく似ている。