悲しい時
ある日。それが人の言う物差しでの「いつ」なのか、彼にはよくわかっていない。言葉で表すならばそれは3年ほど前だったが、その感覚は、当時の彼にはなかった。とにかく、それは今よりも少し前の、ある日の事。
あまりにも唐突な出来事だった。
その日、初めてその雪男は、自分が自分である事を悟った。
雪男にはそれ以前の記憶はない。あるのはただ、それまで漠然と生きていた感覚。
だがその靄のかかった時の中、微かに残る思い出。
かつては仲間が居なかったか、――それはあるいは友人、肉親ではなかったか。
何故今ひとりなのか。
雪男は炭坑中を彷徨い、探し、なにひとつ見つからず、そして気付いた。
何故かは分からないが、自分とその誰かが、別れてしまったのだと思った。
彼は動き始める。ここには誰もいない。でも、自分は生きなきゃならない。
のどかな生活。持て余された時間。雪男は拾った骨を削り出し、いくつもいくつも彫像を造る。気に入ったものには名前をつけ、洞窟の壁面に穿たれた目線の高さのくぼみにかざった。それを眺めて何度も頷く。
色々なものを食べ、山中を歩き回った。時々は縄張りに入り込んできたモンスターと戦った。それから更に時々は山の頂上に登り、己の上と下とを見比べた。
空にはちかちかとたくさんの明かりが灯っている。眼下にも、おなじようにたくさんの明かりがあった。
どちらがより美しいだろう。彼は考え込む。どこまでも広がる空の明かり。対して、地上の明かりはごく一部でしか輝いていない。だが密集したその光は、空のものよりも明るく大きく見えた。
――どちらもきれいだ。雪男はそう結論づけて、住処の穴に戻る。途中で野犬だかモンスターだかの細い骨を拾ったので、それに模様を刻み、組み上げた。
骨の表面を丁寧に磨くと、つるりと輝くようになる。どんな骨でも程度の違いはあれ、大抵は光るようになるのだ。その光もまた、彼の頭上と眼下に広がる明かりに匹敵するくらい、美しかった。
壁面にそってずらりと並べられた彫刻の中でも、特に彼が気に入っているのは、ひときわ太い骨から削り出した作品。その表面は他のどれよりもつやつやと光り、雪男の身体を包むふかふかの体毛よりも、彼の周囲に積もる雪よりも、一層白かった。
理由はわからなかったが、彼はその骨に不思議な懐かしさを感じた。遠い記憶の中に残る誰かを思い出し孤独を感じる度、雪男はそのお気に入りの彫刻を棚から下ろして、そっと頬擦りをした。凍てついた山中の中で、そっと彼の身体に熱が灯る。星の瞬きよりも、町灯りよりも、他の彫像達よりも、ずっとずっときれいな彫刻。
何の骨かは知らない。雪男が知る限り、この辺りにいる動物、モンスターは、これほどまでに太い骨は持たない。
だが、この骨は雪や地中深くに埋もれていたわけでもなく、骨自体も脆くなっていたわけでもないから、おそらくこの骨の持ち主はわりに最近、この辺りで命を落としたものと推測される。
どんな動物よりもしなやかで、どんなモンスターよりも巨大な骨格を持った、大きな獣。一本の骨の直径から考えて、その全長は恐らくこの雪男にも匹敵するのではないかと思われた。
そんなものが少し前、雪男の縄張りを歩いていたのだ。その事を思うと、彼は少し不安になり、また少し楽しみな気持ちになった。会ってみたい、戦ってみたいと言う気持ち。あるいは襲われることに対する恐れ――様々な感情が彼の中で渦巻く。
なんにせよ、彼はその骨を一番気に入っていた。
しかし、やがて長い時を置いて、彼ははたと思い当たった。
出逢うことのなかった大型の獣。骨の持ち主。それは遠い記憶の中にいた誰かだったのではないだろうかと。
単なる想像だった。雪男の決して賢いとは言えない脳が見せた、感傷的な幻だったのかも知れない。ただ雪男は、深い裏付けもなく、自分の想像を信じた。そして、ほんの少しだけ、悲しい気持ちになった。
何故今自分はひとりなのか。どうして誰もいないのか……
幾度となく胸に過った謎を問いかけながら、雪男は彫像を撫でる。彼の毛むくじゃらの指が、つるりと表面を滑った。
彼の住処の壁面中、無数に増え規則的に並べ飾られた彫像。日が過ぎるごとにひとつ、またひとつと数を増やしていく。だがそのどれも、雪男の孤独を癒さない。彼の身体を温めるものもない。
雪男の溜め息は凍てついた風を生んで、洞窟内に不気味な反響を響かせた。
虚ろな風の音は、彼の縄張りに客を呼ぶ。
ややあって、雪男の洞穴の付近から、雪を踏む音がした。彼は驚き身体を緊張させた。地面に耳を付ける。軽い足音は聞き慣れないもので、大型の獣やモンスターではないという事が知れた。
脅威となるような獰猛なモンスター、敵ではない。それを確認してから、雪男はのそりと穴から這い出した。そして、自分の守る縄張りに入り込んできたものを迎える。小さく、やわらかい毛につつまれた、まるっこい生き物。
これまでテリトリーを荒らしたどんな敵にもそうしたように、雪男は爪を立ててその生き物に飛びかかった。
――ほどなくして、雪男の身体は地面に倒れる。見たこともない生き物は、踊るように雪男の腕を躱しながら、歌うようにたたらを踏んだ。起こった落盤に雪男だけが巻き込まれ、このざまだ。彼は死を覚悟した。
死ぬ。そうなれば、いつか自分も骨になるのだろうか。その骨はどんな骨だろうか。あのお気に入りの彫像のように、ひときわ太く表面はつやつやと光り、雪男の身体を包むふかふかの体毛よりも、彼の周囲に積もる雪よりも、一層白い……そんな骨なのだろうか。
雪男はそんな事を想像しながら、ただ、それを自分の目で確認することが出来ないことを残念に思った。もし自分でその骨を拾うことが出来たなら、あの彫像と揃いのものをもうひとつ作るのに――そうすればきっと、あの悲しい気持ちも休らうことが出来る気がするのに――
そんな事を考えていた雪男を、さきほど戦った生き物が覗き込む。殺気はない。驚いて目をまんまるにした雪男に、その生き物は頬をふっくらと高くして、笑った。
やがて雪男がその生き物を親分と慕うようになると、『親分』は彼に美しい石を贈ってくれた。
雪男は、あの彫像の目の部分に、その石を嵌め込む。きらきらと光る石は、つやつや輝く真っ白な彫像によく映えた。
彫像が増えるペースが減る。比例するように、『親分』とともに過ごす時間が増えた。たくさんの事を教わり、一人であることを感じ、悲しい気持ちを覚えることも、少なくなった。
だがそれでも孤独は消えない。雪男は今また、あの彫刻を抱きしめた。白い毛並の中で、それよりも白い骨と、不思議な虹彩の石が輝いている。