私異邦人
あれはいつの事だったか。世界中をふらふらと渡り歩く旅人だった僕の前に、突然変な男が現れた。
いや、今になっては男だったのか女だったのか、それすらも分からない。原色の衣を身に纏い、複雑なつくりの頭巾で顔全体を覆っていたから、男女の区別も付かなかった。
声を聴けば、わかったかもしれない。だけど、僕は一度も彼――便宜上、とりあえず彼、と呼ぶ事にする――の声を聴けなかった。彼が喋らなかった訳ではない。彼の声を聴く事が出来なかっただけだ。
思えば、僕は彼の名前も知らない。初めて会った時に名を尋ねたが、彼は名乗らなかった。その時の問答は、こうだ。
あんた、誰? 僕はそう問いかけた。彼はひどくくぐもった声で、答える。
『君こそ誰?』
それは不思議な声で、男のようにも女のようにも、老人だといえば老人のものに聞えたし、幼児のようにも思えた。おまけに奇妙な抑揚がついていて、感情を一切伺わせない。僕は驚いて、一瞬固まってしまう。
しかしすぐに気を取り直して、
俺は、……だ。
と、名乗った。疾うに無い故郷の村で、疾うに亡い母さんに付けてもらった自慢の名。僕は続けて、彼に問い直す。
で、あんたはなんなんだ。
『僕? 僕は…いや、俺は…』
その時、被っている頭巾の隙間で、『彼』の目がきらりと光った。そして、その下部の布がもごもごと蠢き、彼が告げる。
「俺は……だ。」
僕は本当に驚いた。その時彼が口にしたのは僕の名前だった。そればかりか、そう名乗った声も、先ほどの奇妙なものとは違う。それは、僕と同じ声だった。
からかっているのか? 僕は当然怒って問いただしたけど、彼はただ笑うだけだった。
布に隠された表情がどんなものなのか、伺い知る事はできなかったけど、僕には分かる。彼は確かに、笑っていた。
彼は結局名乗らなかったし、もちろん顔も見せなかった。僕は彼を追い払おうとしたけど、何故だか、彼は僕の後をついてきた。
なんだよ。
不機嫌に問いかけても、彼はただ軽く笑うだけだ。
『別にいいじゃないか』
僕はその声を聞いて、目眩がした。僕と同じ声。自分自身の声を聞かされるのは、こんなにも気持ちの悪い事だったのか。自分ではない人間が、僕と同じ声で、僕の言うような言い方を真似て、喋る。――胸の奥からこみ上げる吐き気に、僕は頭を何度も振った。
なあ、それ、止めてくれないか。僕は再三口にした言葉を、何度も辛抱強く繰り返した。
それ、とはもちろん、僕を真似る彼の行動全てを指す。追い払うように手を振りながらそう言ってはみたが、やはり彼は止めようとはしない。今度はその手振りまで真似て、僕の声を繰り返した。
『気にするな』
そのとき、僕の背筋に嫌な汗が伝う。目の前の異様な姿の人物は一体なんなのか。見る事の出来ない彼の顔は、派手な頭巾の向こうにある顔は、もしかしたら僕と同じなんじゃないか――そんな気味の悪い想像が、心中でむくむくと膨らんでいく。
僕はまた頭を振った。彼がそれを見て可笑しそうに笑う。顔は見えなかったが、笑い方は僕と同じだ。また目眩がした。
だが、僕の感じた不快感は、それほど長く続かなかった。――彼を追い払うよりも早く、僕が彼に慣れてしまったから。
慣れてしまえば、彼の存在はこの上もなく面白い。元々、何の目的もない流れ者の僕だ。独り、ただ世界を歩き回るのにも、少々飽きが来ていたというのが正直な所。同行者があるのはそれだけでありがたかった。おまけに、彼はその一挙一動で、僕を驚かせてくれる。
例えば、食事だ。一番最初に同じテーブルに着いた昼食時、彼は恐ろしく洗練された動作を披露した。僕が利用する場末の食堂には不釣り合いなほど、どこぞの貴族かなにかの出なのかと疑ったほど、彼は優雅にナイフとフォークを操ってみせる。頭に被った布を、顔を見せずに済む程度にずらして、流れるように食事を口に運んだ。僕は驚き、目を見はる。
けれど僕は気付いていなかった。僕が彼の手さばきをじっと見つめていたように、彼もまた僕の指先を凝視している事に。
そして気付けば、次の夕食、彼の素晴らしい手つきを見る事は出来なくなっていた。――彼の食べ方は、僕の粗野なものと同じになっていたからだ。
僕はその事を残念がった。彼が僕を真似するより、僕に教えて欲しい。そう頼んだが、彼はただ、笑うだけ。何も答えぬままに皿を持ち上げ、口をつけてスープを啜る。がちゃがちゃと音を立てて肉を切ると、口に運んでくちゃくちゃ噛んだ。
昼間の彼からは想像もできないその動作。僕が顔をしかめると、彼は肩をすくめる。僕がそうする時のように、胸を反らして首を傾げながら。
僕は思わず笑った。一秒、一瞬ごとに彼は僕に近づいている。
おもしろがった僕は、彼の前で様々なリアクションを取ってみせた。
怒るとき。悲しむとき。喜ぶとき。涙するとき。彼はひたすら、僕をじっと見つめる。そしてその度に、彼はまた一歩、僕に近づいた。僕は日々それを楽しんで、おもしろがった。
しかし、物事には何事も終わりというものがある。僕はそれに気付いていなかったけれど、彼はいつもそれを意識していたようだった。
僕が彼に出会ったのと同じように唐突に、彼は僕の前から消えた。
「もう、ここにいる必要はない」
最後の日、彼は僕とまったく同じ声で、僕がそう言う時とまったく同じ言い方で、そう言った。首を傾げる僕の前で、彼はまた笑う。僕と同じ笑い方。
そして彼は頭巾を取った。僕は驚いて、息を呑む。そこにあったのは、鏡の中で見慣れた、僕の顔。あまり整った顔立ちではない、ちょっと曲がった鼻の、陽に灼けた僕の顔…
彼は取ったばかりの生温い頭巾を、僕に被せた。僕の視界が鮮やかな原色の布で覆われ、その隙に、彼は歩き出していた。
僕は頭巾をずらして、隙間から彼の姿を探す。颯爽と歩いていくあの後ろ姿は彼のものだ。いや、でも姿は完全に、僕のものだ。僕があるいている。僕はここで彼の頭巾を被せられて、いつまでもそれを見送っていた。僕がどこかに行くのを。
そうしてその瞬間、色々な事がわからなくなった。
あの時消えたのは僕なのか、彼なのか――いまここに居る僕は僕なのか。考えてみれば色々な記憶がひどく曖昧になっている。
――違う。僕には僕の生まれた家の記憶がある。疾うに無い故郷の村、さびれた田舎の村で、僕がまだここのつの時、火事で全てが焼けてしまった。その時に亡くした母…優しかった母。僕の名前をつけた母さん。
だけど、僕はこの事を彼に話さなかっただろうか。彼が聞いた僕の話が、僕の中で記憶となってすり替わっているのだとしたら。話を聞いていたのが僕で、彼がこの話をしたのだとしたら。――わからない。
わからないから、僕は彼を捜す事にした。世界のどこにいるかはわからないけれど、さがさなくちゃいけないような気がした。
そして確かめなきゃいけない。彼は僕なのか、僕が彼なのか、彼は誰なのか。わからない事だらけだ。探すにしたってどう探せばいいのかわからないけれど、それでも僕は、世界中を回ってみる事にした。僕の顔をした僕を捜す旅――それはたぶん、長く続く、そんな予感がしたけれど、それでも僕は旅立った。
それからしばらくして、ある噂が広まっている事を聞いた。
「世界の何処かに、物まねばかりする奇妙なやつが居る」。
それは僕の事か。僕の探す彼の事か。どちらでもあり、どちらでもない。だから多分、彼と僕が出会う事はもうないんだろうか。そんな風に思う。でも、僕は今日もまた彼を捜す。
ああ、あそこに旅人が居るよ。まるでいつかの僕のようだ。彼に聞いてみようか。彼を知らないか、彼をどこかで見たか、どうか。
「…あんた、誰?」
僕が質問するよりも早く、旅人が僕に聞いてきた。質問されたら、答えなきゃいけないね。僕の質問は後でいい。ああ、でも答えるにしたってなんと答えればいいのか。だって僕は僕なのだか彼なのだか、自分でもわからないんだから。
仕方なく、僕は彼に質問を返す事にした。最初聞こうと思っていたのとは、別の事を。
――君こそ誰?
「俺? 俺は――だ。で、あんたはなんなんだ?」
旅人が答える。答えを聞いて、僕の記憶がぶれる。
僕は何をしにここに来ていたんだっけ? 最近、本当に色々な事が曖昧で、色々な事を思い出せなくなっている。どこの村で生まれて、誰が母さんだったか、それもよくわからない。きっとこの、視界を埋める原色の衣のせいだ。
でも、僕は何故だかその頭巾を脱げずにいる。その下にある自分の顔を見るのが怖いから。僕の顔は彼が持っていった。なら、ここにあるのは僕の顔なのか彼の顔なのか。彼の顔だとしたらそれはどんなものなのか。わからない。だから確認するのが怖くて、結局僕は僕になった彼の代わりに、彼を演じているんだ。
…ああ、そうか。彼の代わりに彼を演じるなら、彼のように僕もこう言わなきゃいけないのかな。あの時彼がそうしたように。
――僕? 僕は…いや、俺は…
「俺は――だ。」
僕は目の前の旅人の名を名乗って、笑った。彼には僕が笑っている事が伝わっているだろうか? ――たぶん、わかっているんだと思う。あの時と同じだ。
それがどこか可笑しくて、僕はまた、笑った。