栴檀の花


 獣が原の日差しが最も強くなる時期、彼はあの少年と出会ったのだ。その事を、彼はよく憶えている。

 彼は自分をガウと呼んでいた。誰かに付けられたものではない。そもそも名前と言う概念がなかった。普通の少年たちが自分のことを僕、あるいは俺と呼ぶように、彼は己を『ガウ』と呼んだ。いつごろからそうしていたのか、彼自身もよくわからない。彼の記憶はひどく曖昧だった。ある時よりも前の事は、ほとんど思い出す事が出来ない。
 とにかく、彼はガウと言う。ガウ自身は紛れもなく人間の子どもだったが、彼を育てたのは人間ではない。人から怖れられ、忌み嫌われる野獣達、モンスターの群れだった。彼が憶えている限り、人間と真っ当に接触した事は、今までに一度しかない。
 一度だけ。


 それは、そう、獣が原の日差しが最も強くなる時期だった。それは夏の盛り。草木は力強く茂って、モンスター達は一年を通じて最も活発になり、荒涼とした大地を闊歩する時でもある。焼け付くような日差しが彼の肌を照らし、その中で彼は汗にまみれて奔っていた。
 当時、ガウは昼夜を問わず荒原を走り回り、疲れたら適当な日陰に入って眠り、空腹を覚えればその辺りの植物や動物を食べる、という生活を送っていた。人でありながら、獣と全く代わらぬ日々だったが、彼はそれを疑問に思った事もなかった。彼の周囲には、荒れはてた草原と、そこを跋扈する獣たちの存在だけがある。当然の生き方だった。
 ところがそのガウの世界に、期せずして異物が混入される。ガウよりも小さく、ひ弱そうで、つるりとした肌のやわらかそうな生き物。
 草原の南東部、大きな木の落とす影の下で、ガウはその生き物と初めて出会った。
「…きみ、誰?」
 ガウはまず、その鳴き声に驚いた。甲高く、奇妙な抑揚を持った声。獣が原中のモンスターを見てきたが、こんな声を出す者は他にいない。ガウは警戒し、牙を剥いた。
 生き物が前足を伸ばしてガウに近づく。彼は一歩飛び退いて、吠えた。
「ガウ!!」
 ガウは、つよい。そして眼前の生き物はガウよりも遥かに弱そうに見えた。威嚇すればすぐに逃げ出すだろうと予想をして、ガウは牙を剥く。
 そもそも、ここ獣が原でも、彼に勝てる獣はそう多くはないのだ。ガウよりも弱い獣たちは、ガウがこうして吠えればたちまちに逃げて行く。自分よりも強い獣には、ガウの方から近付かない。遠くからでも、強い敵の存在はわかるのだ。だから、ガウはその気配を感じた方向には絶対に行かない事にしている。この木陰に来るまでの間に危険は一切感じなかったから、やはり、この生き物は確実に、自分より弱いものなのだ、とガウは確信をする。
 しかしそいつは、他の獣たちがそうするように逃げようとはしなかった。警戒する様子もない。その奇妙な動作にガウは面食らう。
「ああ!」
 と、突如生き物が吠えた。器用に前足を胸の前で打ち合わせ、ぱちんと木の実が弾けるような音を立てる。見慣れない動き。ガウは、急にその生き物が恐ろしく思えて、数歩後じさった。そのまま木の幹に身を隠すようにして、様子を伺う。生き物はまた一歩、近寄って来た。
「ガウっていうの? それが名前?」
 再びガウに向かって伸ばされる、前足。それを見て、彼はふと気付いた。
 毛の生えていない足は、果実のようにあわい赤色をしている。やわらかそうなそれは、獣が原にいる獣のものとは似つかない。むしろ、自分のものにとてもよく似ている。
 戸惑って、ガウは首を傾げた。生き物が歯を見せる。犬歯は尖っておらず、整然と並んだ歯は、雲のように白い。ガウが見た事もないほど美しい歯列にうっとりと見とれていると、生き物はガウの正面にかがみ込む。
「僕はアルだよ。わかる?」
 獣の鳴き声ならば、ガウは意味を聞き取る事が出来る。はっきりとした意識を汲み取る事は難しかったが、なんとなく何を言おうとしているのか、どのような獣であっても大体察する事が出来た。
 しかしこの生き物の鳴き声だけは、まったく意味が理解出来なかった。様子と声色から、敵意がないことだけはわかる。だが何を言おうとしているのか…
 ガウが困惑して眉を寄せると、生き物がまた、歯を見せた。
「うーん、わかんないか」
 きれいな白い歯。きらきらと光るものが好きなガウは、たちまちその光の虜となる。ぼんやりとそれを見つめていると、生き物は唸りながら俯いて、そのきらきらは見えなくなってしまった。
「えーと…じゃあ、これならわかるかな」
 そう鳴いて、近くに落ちていた小枝を、前足で器用に掴む。何をするのかとガウは身構えたが、すぐにその警戒が杞憂であったと分かった。生き物は枝をガウに向けたりはせず、代わりに地面に突き立てた。そのまま前足を上下させて、土をがりがりと擦る。
 生き物が何をしているのかさっぱり理解出来なかったが、ガウはとりあえず生き物の足下を覗き込む。まると、まるの下に、棒。更に棒。また棒。最後に、最初の丸の上に、ぎざぎざと線をえがく。
 不思議な図形だ。そこで手を止め、生き物が顔を上げる。図形を指差して、吠えた。
「ガウ! ガウね!」
 ガウは混乱したが、少し考えて意味を理解する。図形をよくよく見てみれば、なるほど、それは水面に映るガウの姿にすこし似ていた。では、それがガウなのか。
 そこまでは理解したので、ガウは頷く。生き物はまた歯を見せて、頷き返した。そしてまた枝を握り、ガウを現す図形の隣に、同じような絵柄を刻む。今度は彼にもすぐに分かった。それは自分ではなく、この生き物の姿だ。生き物はまたそれを指差し、鳴く。
「アル」
 聞き慣れない発音の声だったが、ガウは理解する。
 この生き物は、アルというのだ。ガウが自分をガウと呼ぶのと同じように、この生き物――アルは、アルの事をアルという。
「アー」
 ガウはアル、と鳴いたつもりだった。しかしうまく口が動かない。よくそんな鳴き方が出来る物だ、と感心していると、アルの歯がきらりと輝く。夏の日差しを照り返して、それはどんな宝物よりきれいに見えた。
「そう。僕は、アル」
 ガウは後で知った事だが、その歯を見せる仕草は『笑っている』という事だ。嬉しそうに、楽しそうに、きらきらと白い歯を光らせて、アルは笑った。
 それがガウと、アル――これも後で知った概念だが、そのアルという『名』の『少年』との出会いとなる。


 それから何度も、アル――彼はガウの所に来た。アルと会って以来、ガウも頻繁にあの木の下に行って、彼を待つようになる。
 ガウは彼の鳴き声を聞き、身振りを交えて意思疎通をしているうち、次第にアルの声の意味がわかるようになってきた。彼は言う。それは『言語』でありアルの『言葉』だと。
 最初はなんのことかさっぱりわからなかったが、少しずつ、朧げながら意味を理解する事が出来るようになった。つまり言葉とは鳴き声であり、その声で伝えられる意思の事なのだろう。そのように納得して、頷いてみせると、アルは『笑った』――これも彼に教えられた言葉の一つだ。
 それ以外にも、アルは多くの事柄を言葉にして、鳴く。彼はまず、自分の事をガウに教えた。
 獣が原の隅にある、獣が入れない、入っては行けない場所、そこにある『村』にアルは住んでいる事。そこにはアルと同じような生き物がたくさん居る事。歳――産まれてからの年月は、多分ガウと同じくらいだろうという事。
 中でもとりわけガウが驚いたのは、彼が自分を獣ではないと言った事だった。
「獣じゃなくて、人間だよ。に・ん・げ・ん。わかる?」
 にんげん。その言葉を、ガウはなんとなく頭に刻んだ。そして不意に思いつく。
 考えてみれば、ガウとアルの容姿は本当によく似ている。アルはガウを表す図形と同じものを描いて、それを自分だと示した。
 ガウは己を獣が原のモンスターと同じだと思っている。いや、思っていた。だが、もしかしたらそうではなく、このアルと同じ生き物なのかもしれない。つまり、自分も――人間なのかもしれないのでは。
 ガウは身振りと、鳴き声でアルにそう尋ねた。アルは笑う。
「うん。きっとそうだと思うな」
 鳴いた言葉の意味はよくわからなかったが、アルが頷いた事で、それが肯定の意味だと知れた。
「がう!」
 不思議とそれが嬉しく、ガウは飛び跳ねて喜ぶ。アルと同じように歯を見せて笑った。獣には、こんな表情は出来ない。ガウの中に、やはり自分はアルと同じなのだという確信が産まれる。――にんげんなのだ。ガウも。

 それまでは獣が原を縦横無尽に駆け回り、好き勝手に生きていたガウも、少しずつその行動範囲を狭めた。あまり離れては、アルに会えなくなるからだ。それから、好きな時間に起き好きな時間に眠るのではなく、アルが来る事の出来る昼間に起きて、アルが絶対に来ない夜に眠る習慣をつける。
 ガウの獣同然の生活が、アルの登場で少しずつ変化した。それだけでなく、自分への認識そのものが完全に塗り替えられて行く。戸惑いはあったが、ガウはその事に嫌悪感は覚えなかった。
 なぜなら彼は、ガウにとってはじめての『なかま』だったからだ。それもやはり、彼に教えてもらった言葉である。なかまとはガウと僕の事だよ、彼はそう言った。つまり、自分とガウを同じものだ、と言う。それは心地のいい言葉だった。
 そうして共に過ごすうちに、瞬く間に季節は過ぎる。『夏』に『アル』出会ってから、もう『半年』、獣が原は『冬』を迎えた。これらは全てアルに教え荒れた『ことば』であり、概念だった。
 冬と言っても、獣が原のそれはさほど厳しいものではない。気温が少し下がり、風が冷たく、乾いたものになる程度だ。特に障害もなく、アルはガウの元を訪れ続けた。
 近頃では、出会いの場となった木陰を離れ、ガウが獣が原を案内することも多くなった。もちろん、アルはせいぜい日が暮れるまでには帰ってしまうから、それほど遠くまで行くことは出来ない。それでもガウは、限られた範囲の中で、次々とお気に入りの場所を紹介して回った。
 アルは本当に色々なことをガウに教えてくれる。何でも知っているように見えていたが、彼はこの獣が原のことは何も知らなかった。ガウにはそのことが可笑しく、また少し自慢げに感じて、殊更喜んでアルを案内する。アルもそれを楽しんでいるようだった。

 その日は、お気に入りの場所の中でも更にとっておきの場所に、ガウはアルを連れ出した。
 まばらな林の中に存在する、丸い実のなる木。枯れかけた草の色と、あるいは太陽の光と同じ色をした、まんまるの木の実だ。枝が少ししなって見えるほどに、たくさん実っている。明るい色のその実が、ガウはとても好きだった。
「きれいだねえ」
 二人並んで木を見上げて、ガウは満足し、喜んだ。アルはよくその言葉を使う。ガウが美しいと思うものを見せたとき、アルは大抵嬉しそうにそう叫ぶのだ。だから、ガウにはそのきれいという言葉の意味する所がわかっていた。
「食べられるのかなあ?」
 『食べる』という言葉がなんなのかももう知っているガウは、その疑問に答えようと口を開いた。でも、どう言えばいいのかわからない。わかったとしても、うまく口を動かせるかどうか。
 ガウは仕方なく、首を左右に振ってみせた。この実は食べられない。見た目はおいしそうに見えなくもないし、ひどい毒はなかったが、食べられる味ではないのだ。
「ふうん。そっかぁ」
 ガウの素振りを見て、少しだけアルの表情が曇る。
「おいしそうなのに」
 残念そうに言うアルに、ガウは焦って言葉を探した。がっかりさせるために連れてきたのではない。喜んで欲しいからだ。
 実は食べられないのは確かに残念だったが、この木にはこの実以外にも、きれいなものがある。その事を伝えようと、ガウは懸命に口を開く。
「ぁーあ。きえーぃ−」
 聞いた事のある言葉なのに、ガウの口は思うように動いてくれない。アルは、ガウが何を言おうとしているのかわからないのか、少し困ったように微笑んでいる。その表情のまま、アルがガウの背中を叩いた。
「練習すれば、言えるようになるよ」
 アルはそう言ってくれた。きっとね、と笑うアルに、ガウもつられて笑う。
 ガウは思う。アルのいう通り、練習すれば、そのうちにちゃんと言えるようになるだろう。ちゃんと言えるようになれば、アルは自分が何を言おうとしているのか、わかってくれるはず。
 ――実がなる前、木にはとてもきれいな花が咲く。彼は、はな、きれい。そう言おうとした。
 花が咲いたら、本当に綺麗だから。そうしたら、また、一緒にここに来よう。一緒に、その花を見よう。
 今は無理でも、その内伝えられる。その時に約束をすればいい。練習すればきっと大丈夫、ひとりそう頷いて、ガウは隣のアルを見つめる。
 アルは頭上遥か高い場所にある丸い実に手を伸ばしていた。届くはずも無い。ガウは飛び上がって木に昇ると、ひとつその実をもいでアルに投げた。
「ありがとう!」
 にっこりと笑う彼の顔に陽が当たり、真っ白な歯がきらりと光った。やっぱり、あの歯が一番、綺麗だと思う。きらきら光るその白に、ガウはしばし見とれていた。


 そして、また時が流れる。
 長く涼しさが続いていた獣が原の気温が、最近少し高くなった。日差しもどこか柔らかくなって、その光を浴びて木々の新芽が芽吹き始める。随分前に教えてもらった。これは、『春』が来たのだ。
 しかしその時、そう教えてくれたアルはそこにいない。ガウは一人だった。
 彼はしばらく前からぷっつりとガウを訪れなくなっていた。いつからだっただろう。最後に会った日、特別なことはなにもなかった、普段通り一緒に遊んだあの日を境に、アルとはもう二度と会っていない。
 理由はわからなかった。どんな事情があったのか、ガウには想像もつかない。
 来ないのは一時的な事だ、きっとまたすぐに来るだろう、最初はそう思って待ち続け、一日、また一日と時が過ぎた。その間に、獣が原の気温はぐんぐんと上がり、春はすでに終わり始め、厳しい日差しの夏が近付き始めていた。
 一度だけ、ガウはアルがいるであろう街のそばに近付いてみた。背の低い草の陰に身をひそめて、目を凝らす。何人かの人間が見えたが、求める姿は見当たらなかった。
 もう少し近付こうかとも思ったが、なんとなく躊躇われた。村には近付かない方がいい、昔からそんな気がしていた。村の外周を巡る柵に近付こうとすると、強い獣が近くにいる時と似たような恐ろしさがガウの胸の内に迸る。本能的に悟っていた。あの場所は、ガウにとっては危険な場所だ。
 アルは自分とガウが仲間だと言った。そのアルがあの村に住んでいるのに、何故ガウは危険を感じなければならないのか。そのわけはわからなかった。わからないまま、しかしガウはアルを探しに行く事は出来なかった。彼の獣の部分が感じ取った恐れが、ガウの足を止めてしまうのだ。何度も。

 そして、ガウが気付いた時にはもう、あの木に花が咲いていた。冬に二人で見上げた実は、もうとっくになくなっている。アルを待つ間に実は落ち、春を迎えて葉は茂り蕾が膨らみ、いま、可愛らしい白い花びらを広げている。
「はーあなぁー」
 ガウは木を一人で見上げながら、てっぺんを指差した。緑の中に無数に散らばる白い点。花。
「はぁーな」
 ガウはもう一度声を出す。はな。ちゃんと、言えた。
『練習すれば、言えるようになるよ…』
 今はもうここにはいない、あのともだちの声が蘇る。彼の言葉一つ一つを、噛み締めるように思い出した。
「くぃ…き、ぃれーいー」
 これも、何度も何度も練習した言葉だ。いつか彼に聞かせる為に、彼のいない時もずっと練習をした。きれい。彼が繰り返し言っていた言葉、何度も聞いた言葉。一生懸命練習したことば。
 彼が来なくなり、当てもなく彼を待つようになってからも、ガウは練習を続けた。言えるようになる。彼がそう言ったから、ガウは決して怠る事なく、彼と同じように言えるまで、繰り返し繰り返し練習する。
 はな、きれい。ガウはそう言いたかった。花が咲くまでに、彼にそれだけを伝えたかった。
 出来れば、「一緒に見れたらいいね」、と言いたかったが、さすがにそれは難しい。
 はな、きれい。それだけ言えれば、たぶん彼は意味を汲み取ってくれるはずだ。花が綺麗だから、次は一緒に見に来よう。そう、約束するはずだった。
 結局、その約束は出来なかった。ガウが言えないまま、彼は理由も別れも言わず、突然にいなくなった。
 だから今、ここに彼はいない。だからガウはひとりで、きれいなきれいな花を見つめている。
「あーる」
 アル。その言葉だけは、ちゃんと言える。
「あるー」
 もういちど。どうして彼は来ないのか。行き場の無い疑問を乗せて、名前を呼ぶ。
「あーるー」
 何度も何度も繰り返す。あ・る。唯一、ちゃんと口に出来る言葉。何より先に、一生懸命に練習したのだ。はじめて出会ったなかまの名前。なんとなくわかっていた。きっともう二度と会うはない、だけど今でも大切な――  ガウは木陰で、花を見上げる。ひとりで。
 …きれいなんだ。だから、君にも見せたかった。彼は咆哮した。獣のように叫ぶ声は、もしかしたらあの友達の耳に届くかもしれない。そんな期待を抱いて。

 真夏の生暖かい風に、花が散っていく。こんな風が吹く頃、ガウは彼と出会った。その時を思い出した。
 長い夏が過ぎて、風が少しずつ冷たくなった頃、再びこの木に実が成ることをガウは知っている。そしてまた次の季節が巡って来たとき、もう一度、花が咲くだろう。だけど、その実も、花も、アルと一緒に見上げる事はない。他の誰かと見上げる事があったとしても、彼と二人で並ぶ事はない。きっともう二度とない。知っている。
 葉が落ちて、実が落ちて、また花が咲いても、そして散っていく時も、彼はもうここにはいない。――そんな予感がするから。




............................栴檀の花。