ブイエス
その年最初の雪が舞った夜明け、粉雪で白く塗り替えられた帝国の空に、鐘鼓がこだまする。雪の中、身を寄せ合うかのように密着して歩く隊列。まだ朝日の射さない仄暗い草原の上を、それは巨大な虫のようにくねり、蠢きながら、薄い積雪を蹂躙して進んで行く。
先頭を進む魔導アーマーに、ひとりの将軍が乗っていた。大降りの剣を下げ、歩兵に比べてやや軽装だが、合金の鎧を身に付けている。兜は外していた。大柄ではあったものの、細い身体の線と美しく繊細な横顔、その長い金髪を見れば、一目で女である事が知れる。
彼女は帝国で、常勝将軍と呼ばれていた。幼い頃から帝国で生まれ育ち、帝国の兵としての教育を受けてきたエリートだ。近年は身に付けた魔導の力で敵兵を圧倒し、国外にも名前を知られ始めている。帝国の外、あるいは近年領地となった国々では、専ら悪名だ。だが国内、こと軍部においては、連勝を続ける誉れ高い将軍で通っている。兵達からの信頼も厚く、彼女自身それを自覚していた。
さきほども、傍らの歩兵が彼女にこう話しかけていた。
「厳しい戦いになるでしょうが…将軍がいらっしゃるのです。今回も良い知らせを持ち帰れましょう」
彼女よりもよほど屈強そうで、よほど年嵩の男。いかにも歴戦の兵と言った風な容姿と身なりをしていた。だがそんな男の兜の下から覗く口元は、微笑みの形をつくっている。表情と口ぶりから、いかにその将軍を評価し、信用しているかが容易に見て取れた。
しかし彼女は一瞬だけ怪訝そうな、あるいは不快そうとも思える表情を作っただけで、ふいと顔を背けてしまう。返答を期待していた男は少々面食らったようだったが、やがては視線を戻して黙々と進軍を続けた。少し足早になって隊長機のアーマーから離れ、隊列の中に紛れて行く。彼女は横目で何気なく男の背中を見送った。
止まらない行軍、推し潰されそうな重い沈黙とは裏腹に、兵士達と魔導アーマーの足音が喧しく地を鳴らしている。
搭乗者の意思を顧みず、アーマーの動力部は絶え間なく動き、その足は目的地へと近付いて行った。操縦席に伝わってくる僅かな震動だけが、それを彼女に実感させている。一歩。また一歩と揺れを数えながら、彼女は目を凝らした。
舞い落ちる雪の結晶の向こう、まだ薄暗い地平に、遠く色とりどりの屋根が見える。町並みに人影が見えないのは、まだ距離があるせいばかりではないだろう。時間が時間であるためか、灯りもほとんど見えない。街はまだ、寝静まっている。
そんな穏やかな眠りに包まれた地に、自分たちが今、なぜ向かっているのか。思い出すように実感し、彼女は目を閉じた。しばしの時を置いて、再び瞳を開ける。その眼差しに映るものは、変わらない佇まいの、先ほどよりも僅かに近付いた市街の様子。彼女が数えた揺れの数だけ、見据えた景色は大きくなった。
気付けば、雪が止んでいる。彼女が後方――東を振り返ると、続く隊列が朝日に照らし出され、彼らの防具が眩しく光っていた。空を覆っていると思っていた分厚い雪雲は、すでに多くが流れ、薄くなった雲の所々から青い色が覗いている。
明るく輝く世界。朝を迎えた爽やかな街角に舞うものは、雪ではない。
彼女はまるで何かを振り払おうとするかように長い髪を乱雑に纏めると、簡単に括った。そしておもむろに兜を取り出し、被る。頭部をすっぽり覆う防具で、彼女は自らの顔を隠した。
しかし、とその女将軍は思う。向かう地では、顔を隠した所で己を隠す事は出来ないだろう。魔導の力を使い兵を率いる女。行く先々、そのすべてを滅ぼす将軍――そんなものは、いま、彼女しかいない。
そう理解しながら、彼女は隠そうとした。軽鎧とは不釣り合いに重厚な兜が、鈍く朝日を反射する。
「…近いぞ! 準備はいいな!」
彼女が叫ぶと、周囲の兵から鬨の声が上がる。それは前後それぞれの隊列に伝わり、波となって、うねった。その激しさが、彼女の迷いを断ち切る。
雪が止んだ市街には、血しぶきと人々の叫び、そして彼女の唱えた魔法の引き起こす恐怖が舞うだろう。その光景を予想しながら、彼女はアーマーを操作し、歩調を早めた。
「進め!」
目的地はマランダ。戦闘を歩く兵が、将の声に応じて駆け出した。滅ぼすべき街と人は、すぐそこに迫っていた。
彼がその場に立ち会っていたのは、ほとんど偶然だった。
リターナーから帝国の間諜を任され、ここひと月ほどはこの大陸に滞在している。だが多少の情報が得られた事と、少々の身の危険を感じた事から、一度本部に戻ろうとしていた。その前になんとなくマランダに足を伸ばし、少し街の様子を見ておこうと思ったのは、本当にたまたまとしか言いようがない。
昼過ぎに街に到着し、日暮れまでぶらぶらと街を見て歩いた。買い物ついでに歓談する主婦、はしゃぎ走り回る子どもたち。日が沈む頃に雪が降り出し、人影はまばらになったが、家々のオレンジ色の灯り、温かさは変わらない。その後向かった酒場には、一日の仕事を終えた男達が集まっていた。いたって平和で、普通の暮らしがそこにはあった。
しかし市街のそこかしこに兵が立っていたのを見る限り、やはり帝国とは緊張関係にある。夜半、彼が酒場を出て宿に帰る時にも、兵士達は変わらずそこに居た。恐らく寝ずに警戒を務めるのだろう。彼は何気なく立ち寄った旅人の風を装いながら、油断なく兵士達の様子を観察した。
宿の周辺に立っていた兵が、ちらりと視線を向けてくる。この街の兵士達と敵対する理由はないのだから、彼にやましい所はなかった。思惑があって街を偵察に来たわけでもなし、ただほんの少し様子を見に来ただけだ。たとえ不審に思われ呼び止められたとしても、何ら問題はない。
だが、怪しまれないに越した事はなかった。リターナーなんぞに所属している以上、そこがどこであれ面倒ごとは避けるに限る。彼は自分に注がれる視線に全く気付かない振りで、少しだけふらついて酔っぱらった風を演じた。実際、酔うほどではなかったが、酒も飲んでいた。
そのまま無事に警戒の目を潜り抜け、彼は宿に到着した。カウンターに座っていた女が姿を認めて立ち上がり、笑顔で彼を迎える。昼間に一度立ち寄って部屋を取っていたから、顔を覚えられていたのだろう。
「お帰りなさい。飲んできたの?」
おかみなぞと呼ぶにはまだ若く、わりと美人の女だった。この宿の主人は初老の男だったから、おそらくは主人の娘か、息子の嫁と言った所だろう。垢抜けない印象だったが、気だては良さそうだった。笑顔も明るく、屈託がない。
彼は曖昧な笑顔を浮かべて、適当に頷いた。それだけで何かを察したのか、女はそれ以上追及しようともせず、鍵を取り出し、彼に手渡す。こんな商売をしていれば、もっとひどい酔っぱらいを相手にする事もあるからだろうか。対応は手慣れていた。
「あとでお水でも持って行きましょうか?」
小首を傾げた動作を見るに、若いというよりも幼い、という年齢なのかも知れないと思った。髪を上げているからか大人びて見えるが、もしかしたらまだ十代かもしれない――深い意味もなく見当をつけながら、彼は首を左右に振る。女はそう、と呟いて、カウンターの席に戻った。
「おやすみなさい」
「ああ」
軽く手を挙げて答えると、彼は店の奥の階段を上り、部屋に向かった。
古びた扉の錆の浮かんだ鍵穴に、同じく錆びかけた鍵を差し込む。やや小振りの寝室は、扉同様古びていたが、きれいに整頓されている。彼は上着と靴を脱ぎ捨てると、洗い立てのパリっとしたシーツに身体を埋めた。年代物らしいベッドとは異なり、そのシーツは割と新しいようだった。鼻を埋めると、温かい日差しの匂いがする。
彼は深く息を吐いた。
ここの所、帝国領内でこそこそと活動していたために、長い間精神が緊張状態にあった。こうして靴を脱ぎ、やわらかな布団にくるまれ、足を伸ばして横になったのはどれくらい振りだろう。
彼は久方ぶりに解放された足の指を何度か曲げ伸ばした。微かなしびれが走る。ふと、長い事ろくに洗いもせずに履きっぱなしだった靴の事を思い出した。毎日風呂に入る事も難しいような状況だったから、足もきっと臭いはず――想像して顔をしかめたが、今は考えないことにした。一度横になると、起き上がる事があまりにも億劫になる。久々にゆっくりと湯船につかりたい気持ちもあったが、それよりも眠気が勝った。
肩まで温かい湯に浸かるのも、頭を洗うのも、足を洗うのも、それから靴や衣類を洗濯するのも、明日で構わない。一人そう納得すると、彼は目を閉じた。枕に顔を埋め、うつ伏せの姿勢で眠りにつく。とても静かな夜だった。遠い酒場の喧噪が聞こえるほどに。
夢も見ないほどぐっすりと眠っていた彼だったが、ふと、明け方に目を覚ました。まだ薄暗い空、澄んだ朝の空気の中で、遠くから地鳴りのような音が聞こえる。
「なんだ…?」
呟きながら、彼はベッド脇に放り出された靴に足を突っ込む。上着を羽織ってバンダナを頭に巻きながら、外の様子を伺った。特に物音はしない。喧噪もない。宿の客も、宿の従業員も、まだ眠っているのだろうか。
妙な胸騒ぎを覚えた。ぞわりと全身が総毛立つ。彼は荷物――さして大きくない鞄ひとつが、彼の持ち物のすべてだった――を取り上げると、部屋から駆け出す。
朝起きたら、まずは浴槽に湯を張ろうと思っていた。着ているものを洗濯して、身体を洗って、それからゆっくりと食事をとろう。彼はそう考えていたが、すでにそんな事態ではなくなったと直感していた。
宿の外に出る。何がおかしいのか、何故こんなにも違和感と胸騒ぎを感じるのか、彼自身よくわかっていなかった。
わからないまま、なにげなく街を出た。辺りを見回して、それに感付く。瞬間、彼は叫んでいた。
「――帝国だ!」
うっすらと昇り始めた朝日を背に、遥か遠方で蠢く影。彼の視力は、その影の正体を捉えた。数えきれないほどの歩兵と、まばらに巨大な機械、魔導アーマーのシルエットが見える。
まだ眠りに落ちている街は、彼の一度の叫びくらいでは、さしたる反応もなかった。もう一度、彼は声を張り上げる。
「攻めて来たぞ! 起きろ!!」
不寝番の兵達が集まる。民家の灯りが付いて、ざわめきが広がった。その瞬間、轟音が彼の耳を劈く!
「……っ!!」
声を出す暇もなく、彼は衝撃で吹っ飛ばされた。地面をゴロゴロと転がって、辛うじて受け身を取る。慌てて顔を上げると、彼の真横にあったはずの民家が、ない。周囲は奇妙な沈黙に包まれていた。彼が戦慄を覚えた時、再度、爆発音が響く。地響きとともに、街の城壁ごと、またひとつ家屋が吹き飛ばされた。
その時、思い出したように女の悲鳴が上がった。それを合図にしたかのように、街のあちこちから阿鼻叫喚の相が呈し始めた。
どうするべきか。彼は一瞬迷った。急場に思いつく事が出来た選択肢は、ふたつ。街に残って共に戦うか、この場を離れて様子を見るか――感情は前者を支持した。が、理性と使命感が、彼に後者を選ばせる。
「逃げろ。――来るぞ!」
せめて最後にと警告を促し、彼は駆け出し、市街から離れた。帝国兵に姿を補足される前に、出来るだけ遠くへ隠れなければならない。
背後で再び爆発。次いで、悲鳴。彼は拳を握りしめた。街を見捨てて自分一人逃げる事に屈辱さえ感じたが、今死ぬわけにはいかない、と、無理矢理に理由を挙げて己を納得させようと試みる。彼は必ず、リターナーの本部に、戻らなければならない。皆に知らせなければならない情報を、彼は山ほど握りしめているのだ――その意識だけが、彼の忍耐を助けた。
街から離れた森林に彼はなんとか滑り込み、身を隠す。安全を確かめてから街を振り返ると、ものすごい勢いで進軍した帝国兵達が、もはや間近まで迫っていた。応戦に出たマランダ側の戦士が、帝国兵数名に囲まれたのが確認出来た。人々の怒号が重なりあい、まるで雷のように大きな音となって地面を震わせる。
そして制圧が始まった。
明け方の急襲、マランダ側はまともに応じる事も出来なかっただろう。引き換え、帝国の物量はあまりに圧倒的だった。勝敗は戦う前から、遠方に蠢く影を確認したあの瞬間から、見えていた事だった。
彼は、怒りがふつふつと沸き上がるのを感じた。破壊され、炎に焼かれる民家。蹂躙されて行く街。流されている血は、一人や二人のものではなかっただろう。大声で世間話をしていた女も、鬼ごっこをしていた子どもも、酒場にいた酔っぱらいも、――それからあの宿にいた明るい顔の女も、もしかしたら死んでしまったかも知れない。そう思うと、彼の心中にどうしようもなく熱いものがこみ上げた。
散って行った命、その面影が脳裏に蘇る。優しかった人々。それは遠い思い出の中の少女と重なった。
「許せねえ…」
今すぐに駆け出して、帝国兵すべて殺してしまいたかった。当然の事ながら叶わないとわかっていても、帝国の兵士達をすべて殺してしまいたい。それほどの怒りが彼の身を焦がす。だが彼は必死で堪えた。
今は生き延びなければならない。帝国と戦うために、今この瞬間の情に流されるわけにはいかない。――彼はそう己に言い聞かせ、事あるごとに浮きかける腰と、剣を抜きかける手を押さえ、耐え抜く。
彼にとっては悪夢のように長く感じられた時間。しかし実際にはあっという間の出来事だった。奇襲で行われた制圧はいとも簡単に終了し、マランダの市街は完全に帝国に占領された。日が昇って、まだ間もない時間だった。
項垂れる捕虜を前に、勝利を得た帝国兵が勝鬨を上げる。一通り歓喜の声を上げた後、大勢の帝国兵は一部を残し、撤退して行った。
隊列の中に、魔導アーマーに乗った一人の兵がいた。特殊な機体であるように見えたから、おそらくあのアーマーは隊長機、乗っているのはそれに準ずる立場の人間なのだろう。周囲の兵に比べ華奢な体つきだった。
その時不意に、隊長だか将軍だか、とにかくアーマーに乗った誰かが、おもむろに兜を脱ぎ、投げ捨てたのが見えた。返り血の付いた鉄兜、その奥からぐしゃぐしゃに乱れた金髪が現れる。あまりに離れていた上、後ろ姿であったために、顔は見えなかった。彼女が髪を結んでいた紐のようなものを解く。風に流れた長い金髪。
彼は、つい先ごろ手に入れた情報を脳裏に浮かべた。
まだ歳若く、魔導の力を使う女将軍。金髪で美しい女だと聞いていた。その名前。
「セリス将軍……」
揺れる金の髪を先頭に、返り血を浴びた鎧の列が、ゆっくりと進んで行く。彼は奥歯を噛みながら見送った。彼の憎しみに近いほどの憤怒は、帝国に向けられたものか、あの将軍に向けられたものか。
「許さない、必ず……」
小さく呟いて、彼は立ち上がった。急がなければならない。このような状況になったからには、アルブルグの港の警備も、出国者のチェックも厳しくなるだろう。無事にこの大陸を抜け出し、本部に帰れるかどうか。
いや。帰ってみせる。――決意に固く拳を握ると、彼は心中で誓いを立てた。必ず、また戻ってくる。戦うために。
まだ煙の上がる街を一度だけ振り返り、ロックは走り出した。