空

 ――痛い。
 かすれる意識の中で、セリスは思った。辺りは薄暗く、視界がひどく狭く感じられる。
 体中がひどく痛んでいた。手足も、腹も、頭も、灼けるようだ。
(ああ、そうか)
 不意に、自分の置かれた状況を思い出す。灯りのない、埃の積もった小部屋。その壁の一辺に、太い鎖で手足を拘束された自分。
 体中が痛むのは当然だった。セリスは先ほど味わった拷問の数々を思い出す。ありとあらゆる場所に残された生傷と、その痛み。
 これまで、知る由のなかったことだ。闘い始めたそのときからセリスは最前線に立たされ、最初から他者を従えている立場にあった。暁空の下剣を取り、戦場を駆けるばかりだったのだ。だから、城の地下で秘密裏に行われていた拷問が如何様なものかなど、知り得なかった。
 軍則に乗っ取っての事とはいえ、今まで自分が部下に命じていたのは、こんな事だったのか、と今更ながらに思い知る。随分とひどい仕打ちをしてきたものだ。どこか人ごとのようにぼんやりと浮かんだ考えに、セリスは苦笑する。
 ひどいと言うならば、己の成してきた事のうち、そうでないことなど数えるほどしかなかった。
 深く息を吐くと、胸が灼けるように痛む。執拗に殴られた箇所だ。思わず咽せかけて息を吸えば、今度は辺りに舞う埃が喉に入った。更に激しく咳き込んで、彼女の眦に涙が浮かぶ。
(……惨めなものね)
 セリスは投げやりに吐き捨てた。
 善くも悪くも、彼女の周りには常に大勢の人間がいた。彼らから浴びせられるのは、言葉を尽くした数々の賛辞。帝国という軍事国家の中で、彼女は最も輝き、高みにいた人間のひとりだった。だが。
 セリスは視線だけを彷徨わせ周囲を伺う。今は見張りすらいない、小さな小さな牢獄。分厚そうな鉄扉の向うに一人や二人の兵は控えているかもしれないが、当面彼女の周囲に気配は感じられない。
 あっという間の転落。なんという違いだろう。だが、彼女の中に後ろ暗い気持ちはなかった。むしろ清々しさすら覚えて、薄く微笑む。腫れた頬は突っ張り、顔中が痛んだが、それすらもどこか心地いい。
 あとどれだけの時間が残されているだろう。セリスは笑いながら、思考を巡らせた。
 自分がどれだけ気を失っていたのか、今が一体何時頃なのか、どちらもセリスにはわからなかった。だが、いずれにせよ長い時間があるとは思えない。普通に考えて、拘束されて一通りの拷問を受けたら、後はただ処刑を待つばかりだ。立場を鑑みて即時執行とはいかなくとも、近日中には首が無くなる。それだけは、間違いない。
(どうせなら早く殺せばいいものを。……いますぐにでも)
 セリスは小さく嘆息し、目をつむる。薄暗い視界が、更に深い色に閉ざされた。このまま永久に眠ってしまえたら――そんな甘美な誘惑に心が駆られる。
 と、その時重苦しい音を立てて、扉が開かれた。目を閉じていても感じる光の気配。セリスは重い瞼を上げた。忍び寄る死の影を受け入れる為に。
 しかしセリスの目に飛び込んできたのは、予想していたものとは大きくかけ離れた男の姿。
「お前……」
 思わずセリスは声を上げる。だが、ひりひりと痛む喉からはまともな言葉など出なかった。無意識のうちに体を捩る。手を伸ばそうとしたが、鎖に絡めとられた腕では叶わない。金属が打ち合う重厚な音が響いただけだった。
 そんなセリスに、光の中から現れた青年は歩み寄る。彼は無言のままセリスの前にかがみ込むと、悲しげに眉を顰めた。見覚えのある顔。
「将軍」
 短く呟いたその声にも、聞き覚えがあった。セリスは思い出す。
 男は特別どうという取り柄もない、目立った所のない一兵卒だった。名前も覚えていない。ベクタに戻り、次の作戦を待つまでの短い期間、セリスのそばに控えていた副官のうちの一人である。
 それが、何故ここに? 疑問を口にしようとした瞬間、彼がセリスに手を伸ばす。
 ひやりと濡れたものが頬に触れた。水に浸された布が当てられたのだと気付いたのは、頬の痛みが少しだけ引き始めた頃になってからだ。
 彼は、丁寧な手つきでセリスの顔を拭った。あれほどに熱かった肌が急激に冷やされ、寒気がする。だが、不思議な心地よさがあった。
「ありがとう」
 思わず、セリスは呟いた。誰かに礼を言うのは久しぶりに思える。感謝を込めて青年の顔を見上げ、セリスは僅かながら驚いた。
 彼の頬には、涙が伝っている。
 まだ年若いとはいえ、彼はとうに成人しているはずで、セリスよりも随分年上だと記憶していた。兵士にしては線の細い印象はあったが、それでもこんな風に泣いている顔など、当然見た事がない。
 困惑したセリスに、彼は手を止め、嗚咽を漏らす。
「なんて、痛ましい」
 くぐもった声は聞き取り辛かったが、意味だけは辛うじて拾うことが出来た。
「今ならば、まだ間に合います」
 青年の手が、布越しではなく頬に直接触れる。ざらついた指先の感触が傷だらけの頬を掠め、セリスはこそばゆさに眉を寄せた。
「どうか、お考え直し下さい。今一度帝国への忠誠を誓えば、命だけは助かります」
 ……忠誠?
 青年の言葉を胸中で反芻し、セリスはつまらなさそうにふんと鼻を鳴らした。
「そうしてまで生きるつもりはない」
「なぜ」
 縋る男の手に力がこもる。先刻思い切り蹴り飛ばされた右肩を掴まれ、途端に激痛が走った。だがその痛みすら滑稽に感じられて、セリスの顔には自ずと嘲笑が浮かぶ。
「私はもう、裏切るつもりはないんだ」
「ならばなぜ!」
 半ば怒鳴るような声を受け流し、静かに答える。
「帝国をじゃない。己をだ」
 ぐ、と男の喉が鳴る。彼が反論を口にする前に、心に決めた想いを曝した。
「偽る事は止めようと思った。そうできる道を、今も捜している」
「でも」
 口ごもる青年から一度視線を外し、セリスは横目に自らの腕を見やる。
 太い鎖に絡めとられた両の手。固く締め付けられた手首から溢れた血が半ば固まり、赤黒く凝っていた。
 だが、その更に奥に、深く染み付いた血の色を感じる。
 彼女が奪った命の赤。その臭気。重み。
「今更、もう遅いかもしれないが――」
 腕だけではない。己の髪にも、足にも、胸にも、同じような気配を感じた。 
 それほどまでに、奪ってきたという事だ。吐き気が出そうなほどの匂いにセリスは力なく瞳を閉じる。
 ――遅すぎる事はわかっていた。夕焼けに赤く染められた世界に立ちつくし、気付いたのはもう随分と昔のことのように思える。
 自らを照らす陽の赤とは違う。身体そのものに染み込んだ血の色を視てから、長い時間が経った。その間にも、日ごと強くなる臭気を感じ続けてきた。
 それでも、とセリスは決意を込めて目を開く。
「私は、行こうと思う」
 目の前に経つ男を穏やかに見つめ、彼女が言う。涙を浮かべてセリスを見返す青年。そんな彼に、セリスは笑みすら浮かべた。
 嘲笑ではない。頬に貼り付いた、帝国将軍としての冷酷な笑いでもない。幼い頃いつかそうしたように、ほんの少し目を細め、口角を緩めて微笑んだ。
「……どこへ。どこへ行くというのです」
 彼は硬く噛み締めた唇の合間から、微かに呻いた。
「望む道を行くと言うなら、せめて今は……せめて生きる事をお考え下さい」
 嘆願は涙に濡れ、最後の方は巧く聞き取ることすら難しかった。まるで自らが死に瀕しているかのような青年の声音に、セリスの胸がかすかに痛む。――だが、それだけだ。痛みで動く程の心など、とうにどこかへ忘れて来てしまった。
「戻るつもりはない」
 幾度目かになる決心を口にして、薄く微笑んだ。今まで作ったどんな表情よりも単純で、素直な心からの笑み。
 この状況下で笑えることに、セリスは我がことながら驚いていた。同時に、ここに至るまで微笑むことすら忘れていた己を、初めて、哀れなものだと思った。
 だがそれすらもすでに、遅すぎる。
「ありがとう。もう行け」
「将軍」
「お前まで罪に問われるぞ」
 深く、息を吐く。自分を慕うこの青年の血まで、手に、髪に、心に――あの空に吸わせたくはない。
「私はこれ以上過ちを重ねたくはないんだ。だから、行け」
 その言葉に、青年ははっと息を飲み、苦しげに顔を歪めた。ようようセリスの想いを汲んでくれたのだろう。どこか納得のいかない風情ながら、躊躇いがちに立ち上がり、踵を返す。その背を、セリスは心から安堵し、見送った。
 彼が開いた扉から、また光が見えた。眩しさに目を細める。霞んだ視界の中で、彼が一度振り返るのが見えた。
 そして、再び閉まる扉。薄暗い世界ににひとり残され、セリスは目を閉じる。
 青年の涙を瞼の裏に映し、次いで、いつか見上げた赤く染まった空の色を思い出した。
 流された命で塗り替えられた、あの色。自分の流す血で、また、空は色を濃くするだろう。
 胸の奥がじりじりと灼けた。その痛みから目を背けるように瞼を閉じると、セリスはそのままゆっくりと息を吐く。
 彼女に残された時間は、それほど多くはない。なのに、心は凪いだ水面のように静かだった。
「これで、いい」
 ぽつりと呟くと同時に、彼女の意識は途切れた。微睡みのなか、扉の向こう、――誰かの慟哭があの赤い空に響いているのを、聞く。


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2010.10.05.up