約束
研究所内に設けられた、小さな部屋。周囲を灰色の壁で囲まれ、中には何も置かれてはいない。がらんとした空間の中央に立って、セリスは天井を仰いだ。
一方の壁面の上部に、ガラス張りの窓があった。セリスが部屋の中にいる時、その窓には最低でも二人の姿が映っていた。彼女を監視し、あるいは指導し、記録をつける研究員だ。二人だけの時もあれば、十人近くが小さな窓にみっしりと張り付いている時もある。一人、あるいは誰もいない事は一度もなかった。
今日は確認出来た影は三つ。少ない方だ、と、セリスはぼんやり思う。
『始めろ』
「……はい」
ガラスを通して、低い男の命令が届く。高圧的なものいいに不快感を覚えながら、彼女は渋々その命令に従った。何度も何度も同じ事を繰り返すのは億劫だったが、逆らうわけにもいかない。逆らえば懲罰が待っている。それは彼女にとってもはや脅威ではなかったが、ただ面倒に思えた。ならば大人しく言われた事をこなす方が、よほど楽だったのだ。
彼女は両手を剥き出しの壁に向かって突き出す。もうすっかり慣れた呪文を詠唱し、ほんの数日間で何十、何百回と使った魔法を繰り返す。
「……ブリザド!」
迸る波動。それは壁面にぶつかって、弾けた。魔導実験用に強化された小部屋の内壁は、容易には破壊出来ない。傷ひとつついていなかったが、セリスは自分の魔法の威力が高まっている事を直感した。
一度唱えるごとに、指先の冷たさが増す。生み出される冷気も、そのたびに強くなっているのを肌で感じた。今この魔法を生身の人間に向けて唱えたならば、一瞬でその体温を奪い去り、凍死させる事も可能だろう。
そんな恐ろしい予感に、セリスは身震いした。魔法を使った後、いつもこうして四肢が震える。冷えきった指先と爪、相反して高まる身体を焦がす灼熱。魔法の威力が高まるごとに、更に大きくなってゆく温度差。砂漠のように乾いた心が、その激しさに戦慄するのだ。
いつか自分は、この魔法で人を殺すのだろうか。がたがたと震える手先を無理矢理握って押さえつけながら、彼女は思う。疑問に、解はすぐに与えられた。
――……殺すのだろう。それもきっと近いうちに。
人を死なせた事がないわけではない。これまでに受けた戦闘訓練で、彼女は何度か相手の命を奪っていた。軍内の粛正に際して、罪人の処刑をさせられた事も一度だけ、ある。それでも初めて人を殺した時、彼女は体調を崩し何度も吐いた。
だが、今はもう違う。剣を操る事にセリスの身体は慣れきっていたし、その結果として相手を殺す事に、もはやそれほどの感慨はなかった。何も感じないように、深く考えないようにしている。そうやってやり過ごす事を覚えた。彼女はそうやって育てられてきたのだ。
だからこそ、はっきりとした予感がする。近いうちに、彼女は人に向かって魔法を唱えろと命じられるだろう。そして、セリスはそれを受け入れる。
彼女はもう一度、言われるがまま壁に魔法を叩き付けた。もう一度、繰り返しながら、紡ぐ呪文の言葉とは別のことを考える。もはや、魔法を使う事にそれほどの集中は要さなかった。
――振り下ろした剣で斬り殺すか、生み出した冷気で凍え死なせるか、違いはそれだけだ。最初は慣れなくて、また吐くかも知れない。辛く感じるかも知れない。だがその内、慣れる――セリスは自嘲気味に笑んだ。外見だけ見れば年端もゆかない少女である彼女に、ひどく不似合いな表情だった。
気付けば、命じる男の声が止んでいた。やれとは言われなかったが、セリスは魔法を使い続けた。もう一度、もう一度と、数を数える事も忘れて詠唱を繰り返す。身体の震えも収まらないまま、幾度も魔法を放った後、一度だけ思い切り意識を集中して、手を振り上げた。
何度目になるかわからないその魔法は、これまでのものよりも遥かに大きな威力を発揮し、魔法攻撃に対して強力な耐性を持つはずの壁を、打ち破った。ガラガラと音を立てて崩れた柱、研究員達のざわめきを遠く聞きながら、セリスは笑う。
さあ、もう一度。そう心中で呟いた時だった。
「――よさんか!」
制止の声が掛けられ、彼女は驚いて手を下ろした。振り向くと、瓦礫の山を乗り越えて、見慣れた顔が走り寄ってくる。
「シド……」
ぼんやりと呟くセリスを見下ろして、シドは深く溜め息を吐いた。
「今日はこれまでにしよう」
上部の窓に向けて、シドは殊更大きな声を上げる。
「記録はしておけ。セリスを少し休ませてくる」
『ですが……』
ガラス越しに反論の声がかかったのをシドは無視し、セリスの腕を掴んだ。
「来なさい」
「でも」
「いいから」
半ば引きずられるようにして、セリスはシドに連れ出された。いつになく、シドの歩調が早い。珍しくぴりぴりと苛立ったような空気を発するシドに気圧され、彼女は大人しく、小走りで後に従った。
そうして連れてこられたのは、シド専用の小さな研究室だった。うずたかく積まれた資料に埋もれる机から椅子を引っぱり出すと、シドはそこに腰掛ける。セリスとほぼ同じ高さの目線になって、彼は少女の真っ青な瞳を見据えた。
「セリス。おまえ、どうした」
何を問われているのか、理解していない様子の少女に、シドはまた嘆息する。しばらく考え込んでから、言葉を足して聞き直した。
「最近、あまり休んでいないだろう。なのにこんなに無理をして……一体何を考えてる」
それは質問というよりも、叱責されているような言い様だった。少なくとも、セリスにはそのように感じられた。そう感じたからこそ、セリスは少しだけむっとして、シドから顔をそらす。責められるような事をした覚えはなかった。彼女は苛立たしげに答える。
「……なにも」
「嘘だ。言ってみなさい」
再度詰問され、セリスは一層むくれてシドを睨みつける。同じ答えを繰り返した。
「なにも」
「セリス!」
厳しく咎めるように名を呼ばれ、セリスはびくりと身体を竦ませた。シドの顔はいつになく険しい。少しだけ恐ろしく感じたが、彼女はすぐに思い直した。何を怖がる事があるんだろう、今更。命令違反の懲罰――体罰も、シドの怒りも、彼女にとってはもう、さして恐ろしいことではないのだ。それだけの力を得てしまった。恐いのはそんなものじゃない。己の内なる力と、引き起こされる事象だけだと、彼女は身にしみて理解している……。
不意に、強ばった顔の力が解けた。微笑みにすら見える表情で、セリスは投げやりに言い捨てる。
「……考えるなといったのは、あなただ」
今度はシドの顔がひきつり、凍り付く番だった。セリスはそんな彼を冷ややかに見つめながら、思い返す。
――それは初めて人を殺した日。忘れようもないあの日。
深夜の訓練場、初対面の兵士が奇声を発しながら切り掛かってきて、やむを得ずその剣を振り払った日。幼いセリスよりもよほど大柄な男の手から、いとも簡単に剣が弾き飛ばされた日。その瞬間に、今だ、殺しなさい、と誰かの声が掛けられた日。言われた通り、男の胸に、細身の剣を突き立てた日。胸から流れ出す赤い液体が、セリスの足に絡み付いた日。その熱さがあっという間に冷えて行く瞬間を、実感した日。
男が震え、次第に動かなくなる、その感覚を剣を通して知った、あの日――。
セリスは深夜まで泣き続けた。熱を出して、泣きながら、嫌というほど吐いた。洗っても洗っても、足に付いた血の粘った感覚が消えなかった。剣を手放しても、男の徐々に弱まっていく痙攣が、いつまでも感じられるようだった。胃液しか出すものがなくなって、それでも嘔吐感は収まらず、狂いそうだったあの日。
多くの者が、そんなセリスを遠巻きに見つめていた。監視していたと言っていいだろう。見守りながら、手を出す者は誰もいなかった。ただ一人を除いて。
『セリス、もう忘れなさい』
シドだけがセリスに触れた。温かい白湯と、鎮静剤を手渡して、飲ませてくれた。
『もう考えるな。そうでなければ、ここでは生きて行けない』
彼がそう言ったのだ。セリスはその時の言葉を、シドの表情や口ぶりまで、完璧に覚えている。だから、それ以降あまり多くの事を考えなくなった。
セリスの斬撃に傷付けられて行く肉体、その破壊の感覚。飛び散った血が足に、腕に、顔にかかって、ひんやりと冷たくなっても、相手の痙攣が収まって辺りが静寂に包まれる瞬間も、セリスはその意味を深く考えない事にした。そうでなければ生きて行けない――シドの台詞は、確かに間違いなく、事実だった。考えなくなってから、命令に従ったために苦しむことがなくなり、少なくとも激しい吐き気や高熱に悩まされる事はなくなったのだから。
「なにも考えてなんかない。いわれたとおり、なにも……」
少し前まで、眠りたい、と、そればかり願い、考えていた。ほんの数日前のことだ。あまりに疲弊し、すり切れ、夢の中に逃げ込みたかった。シドにその願いを伝えた事もある。
だがこのほんの数日間で、その逃避がさして意味のない事だとわかった。眠っても、すぐに誰かに起こされる。そして、また眠る前と同じ命令を繰り返されるのだ。
そして何より、力を手にいれたあの時から、夢の中は冷たさを増すばかりだった。以前はあんなにも温かくまどろんでいられたはずの世界は、今では絶対零度の如き闇へと変じてしまっている。身体は休めているはずなのに、見るのは冷たい氷の夢ばかり。少しも休らう事のない心に、最近は眠り自体に苦痛すら感じるようになっていた。
だから彼女は、何も考えない事にしたのだ。考えない事は、望まない事に繋がる。言われるがままに実験をこなし、休息は最低限にするようにした。疲れきっていた方が、あまり色々な事を考えずに済む事を、彼女は幼いながらに身にしみて知っていた。
「ああ、そうだな。……そうだった。確かに、わしは、そう……言ったな」
シドが苦しそうな表情で呟く。セリスは頷いたが、彼はそれを見ていないようだった。苦悶の表情を隠すように手を顔に当てながら、しばし何かを考え込んでいる。セリスはしばらく待ったが、彼は中々動こうとしない。何を言う気配もなかったので、仕方なくセリスの方から口を開いた。
「話はこれだけ?」
それならば、もう戻らせてくれ――そう言おうとしたセリスを、シドが遮った。
「待ちなさい」
深く、深く息を吐きながら、シドが顔を上げた。
「それなら今はそれでいい。――だが、ひとつ約束してくれんか?」
「約束?」
「そうだ」
言葉を待つセリスと見つめあいながら、僅かな間、シドは逡巡するように息を詰める。ややあってから、彼は一語一語を確認するように、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「……人に向けて、使うな。決して」
これに、セリスは目を丸くする。使うな、とは魔法の事だろうか――そう見当をつけたものの、いっそう疑問が深まった。
「なぜ? そのための力じゃないの?」
そのためにシドを含めた大勢の人間が、躍起になって研究を続けているのだと思っていた。魔導の力の研究は、そもそもが戦いに勝つため、あるいは戦いをより有利に運ぶためのものだったはずだ。そうして生み出された力である以上、人に向けて魔法を使うことは、本来の目的に即した力の使い方のはずである。
なぜ彼はそんな事を言うのだろう。セリスはただ首を傾げるしかなかった。そんな彼女の肩に手を添えて、シドは繰り返し言い含める。
「……とにかく、使うな。そうしろと言われても、従うんじゃない。いいね?」
「どうして」
「どうしてもだ。出来る限り便宜を図っておくから」
シドの立場は高い。研究所内でも最も発言権があると言っていい。シドの意見、あるいは命令を無視出来る者は、少なくともこの研究所内には一人もいなかった。いるとすれば、それは研究所を擁する帝国そのものの幹部級だけだ。その彼が便宜を図る、というなら、恐らくこれからセリスにそのような命令が下ることはなくなるのだろう。
「約束しなさい」
だが、どうして。セリスには、ただただ不思議でならなかった。なぜシドはそんな約束などさせようと言うのだろうか。彼の研究の妨げにすらなり得ることを、どうして強要しようと言うのだろう。その約束に、なんの意味があるのか――全ての疑問を眼差しに込めて、セリスはシドを見上げた。
「なぜそんなことを言うの?」
「ケフカのことは知っているだろう」
「……」
セリスは無言で頷いた。強大な力を持った魔導士。その力の代わりに、大きな何かを失った男。
彼女は、ケフカから魔法の使い方を学んだのだ。それ以前にも、彼の命令で剣を振るったこともある。彼女が初めて他人の命を奪った日、殺せと叫んだ男の声は――そう、セリスは覚えている。あの後しばらく耳から離れなかった、あまりにも残酷な声。聞き間違えるはずもない。独特の甲高い声は、紛れもなく、あの男だったと思う。
「人を人とも思わない男だ」
シドが憎々しげに呟く。あの時あの瞬間セリスが聴いたあの声からは、確かにそんな冷酷な性質が見て取れたように思う。セリスは同意を込めて、もう一度頷いた。
「お前を、ああはしたくない」
だから使うんじゃない、とシドは再度念を押してきた。
……長い間、セリスはシドの発言を心中で反芻した。噛み締めるように意味を確認し、ふっと力を抜く。吐息に紛れるようなか細い声で、呟く。
「それで、いいの?」
そんなセリスに応えるように、シドも表情を和らげる。
「ああ。それでいい」
力強く頷いて、そう告げた。
それを見た途端に、セリスの目が潤む。
「セリス……」
「……やくそくします」
「うん。いい子だ」
シドがセリスの手を握る。冷気の魔法を使い続けて凍えた指を、シドの手が温めていく。
以前、セリスは一度だけシドの手を冷たいと感じた事があった。だが、今は――
シドの手の甲に、ぽたりと雫がこぼれる。彼はそれをまじまじと見つめた後で、不意に微笑んでみせた。シドの大きな腕が、すっぽりと少女の身体を包み込む。やわらかな背中に暖かな掌が何度も触れ、撫でてくれた。
……その後で、セリスは久しぶりに眠った。深い眠りの中は相変わらずの暗闇だったが、シドの体温を身体が覚えている。温もりに、恐ろしさは薄れ、彼女はゆったりと身体を休らえた。
「起きろ!」
――だが、安らぎはやはり、長くは続かなかった。叩き起こされたセリスは、まだ眠気の残る眼で時計を見る。ほんの数時間しか休んでいない。
「早くするんだ」
二人の男に無理矢理身体を起こされて、逆らう事は出来なかった。言われるままに、セリスはまた、あの実験室に連れ出される。馴染みの通路を通って見慣れたドアをくぐり抜けた時、彼女を取り巻いていたけだるい睡魔は一気に吹き飛び、顔からさっと血の気が引いた。
「おはよう、セリス」
「……ケフカ」
なぜあなたがここに、と言おうとしたが、声にならなかった。セリスの目は、部屋の一方の壁に釘付けになる。ケフカの纏う原色の衣の向こうに、くすんだ茶色が見えた。普段は装飾品ひとつない殺風景であるはずの部屋の中、地味な色合いだったが、見慣れないせいか、それはひどくセリスの目を引いた。帝国一般兵の標準装備、その服の色だ。
もちろん、壁に軍服が掛けられている、というわけではない。人型にふくらんだ軍服の中には、両手を壁に拘束された涙目の男がいた。シドよりもやや年配、見たことのある人間の中では、ガストラ皇帝に近い年齢に見える。その老兵が、セリスと視線が合った瞬間、目を見開いた。ひどく怯えている。
それを面白そうに眺めながら、ケフカがセリスの背後に回り込んだ。優しく抱きかかえるように肩に手を置いて、屈み込む。
瞬間、セリスは恐ろしい予感に戦いた。彼女は忘れていたのだ。シドの立場は高い。研究所内では最も発言力があると言っていい。シドに逆らえる者はこの研究所内にいない――だが、外には、いるのだ。このラボ出身で今なお頻繁に出入りしている男。シドが忌み嫌っていたあの者の存在を、失念していた。彼にはシドの命令なぞ、意に介する必要はないのだ。
「さあセリス。前に教えた通り、魔法を唱えてごらん」
男がセリスの耳元で、猫なで声を出した。そのねっとりとした声音に、セリスの背筋が粟立つ。柔らかい口調とは裏腹に、男の言葉には有無を言わせない恐ろしさがあった。
『……人に向けて、使うな』
シドとの約束が脳裏に蘇る。セリスはきつく瞼を閉じ、いやいやをするように首を激しく振った。肩に置かれたケフカの手に力が込もる。
「あれが的だよ。簡単だろ?」
彼はクスクスと、耳障りな一人笑いを洩らす。セリスは目を閉じていたが、ケフカの表情が想像出来た。声も、顔も笑みを形作っているだろうが、恐らく彼の目はまったく笑ってはいまい。ケフカの骨張った指がセリスの小さな肩を握りしめる。
「……いや……」
「何? 聞こえないよ。さあ!」
ありったけの勇気を振り絞って呟いた拒絶も、ケフカにあっさりと聞き流された。今まで以上に強く掴まれた肩が、ズキズキとひどく痛む。
助けて、シド。
セリスは懸命に、何度も何度もそう叫んだ。声に出す事も出来ず、ひたすらに心中で呼んだ。助けて――
しかし救いの手は現れない。
「……仕方ないね。じゃあ、手伝ってやるよ」
ふふっ。ケフカの吐いた息が、セリスの耳にかかった。奇妙に甘い匂いが、彼女の鼻をついた。ぞわりと総毛立って振り返ろうとした瞬間に、セリスの腕が男の手に捕らえられる。
「さ。……前にも、教えてやったね」
振り向きかけたセリスの頭に、ケフカのもう一方の手が伸びた。そのまま、無理矢理前を――両手を拘束されて壁面に繋がれた老人を――ケフカの言う『的』を――向かされる。再び、セリスと老兵の目が合った。彼は白いものの混じった髭の上から、きつく猿ぐつわを噛まされている。乱れた髪の間から覗く青い目が、恐怖に怯えて揺れていた。震えるその様子には覚えがある。セリス自身が、力を使う度ああして震えていたのだから。
「ほぅら。一緒に唱えるんだ」
セリスの耳元で、ケフカが呪文を囁き始める。
もう、駄目だ。諦観がセリスの心を支配した。頬を涙が伝うのを感じながら、彼女は彼の声に合わせて、何百何千と唱えた魔法の言葉を紡ぎ始める。
気付くと、的の老人の目からも涙が溢れていた。まるで一枚の鏡のように、セリスと老人の動作は似通っている。あまりの恐怖に怯え、戦き、涙を流す。恐らく願っている事も同じだろう。『やめさせてくれ』――そしてセリスも老人も、その願いが叶えられない事を、知っているのだ。二人が違うのはただひとつ。殺す側と、殺される側、たったそれだけの差だけだった。
途中から、背後の声が止んでいた事に、セリスは気付いていた。重なっていたふたつの声はひとつに、セリスのものだけになって、部屋を満たしていく。
「――やれ!」
頃合いを見計らって、ケフカが叫んだ。あの時、殺しを促したものと同じ声。甲高い叫び声に鼓膜が震えるのを感じた瞬間、セリスは溜め込んでいた魔力を解き放つ。迸った冷たい冷たい波動。持ちうる全てを注いだ魔法は強大な破壊力で炸裂し、老人の後方の壁、その向こうの通路までもを凍らせ吹き飛ばした。
がらがらと崩れ降り注ぐ氷塊の向こうで、誰かの悲鳴が聞こえる――それを掻き消すように、ケフカが高らかな笑い声を上げた。
「あははは! よく出来たね! ……いい子だ」
斬殺した時とは違い、人を殺した感覚は、あまりにも希薄だった。肉と骨を断つ感覚もない。流れる血も見えない。叫び声だけが、微かにセリスの耳に届いただけだ。破壊された建物の瓦礫に隠されて、死体さえも確認出来なかった。
――だが、確信がある。あの老人は生きてはいない。その命を奪ったのは、紛れもないセリス自身の力、彼女が放った冷気の魔法だという事。
彼女の中のシドの微笑みが、眼前の壁と同じように崩れ、凍り付く。……約束を、破ってしまった。
「あ、あ……ああ……」
うわごとのように声を発しながら、セリスの身体が床に崩れ落ちる。こみ上げる吐き気。フラッシュバックする記憶。頭がひどく痛み、セリスを苦しめた。
背後で、ケフカが冷ややかに少女を見下ろしている。薄ら笑いを浮かべて、彼は囁いた。
――お前も、壊れろ。
吐瀉物が床を汚す。壁から伝わった冷気で凍った床に染みて、熱を失っていく感覚は、いつかセリスが覚えたものと近い。収まらない寒気と震えが、すでに消耗しきっていた彼女の精神を蝕む。
「――セリス!」
呼ぶ声を聞きながら、彼女は反応する事も出来ず、腹の奥からこみ上げてくるものを吐き続けた。苦しさでこぼれる涙が、霜の浮いた床に斑な模様を穿つ。死に瀕するものがそうしたように、彼女はがくがくと四肢を痙攣させ、吐きながら嗚咽を上げた。
頭の奥で、守れなかった約束が谺している。
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2006.09.29.up