カトルカール

 行動に、そもそも深い意味はなかった。
 ロックは生来、菓子の類いを好む。子どもの頃から、そうだ。遠い家族の記憶、手作りのケーキ。素朴な甘さは生まれた頃から馴染んできたもので、ずいぶんと時を隔てた今でも、彼は菓子やケーキに目がない。なぜ好きかと問われても、別段理由はなかった。
 それが高じて、という訳ではなかったが、さほど複雑でないものなら自分でも作ることが出来る。ファルコンの簡素な調理場を借りて、久々に作ってみるかという気になったのにも、これまた深い意味はない。強いて言えば、久しく口にしていなかった砂糖の甘みを思い出しただけだった。
 ともあれ、買い置きの食料を漁り、最低限必要なものは揃っていることを確認すると、ロックはキッチンに篭った。夕食はとうに済んだ時間だ、仲間のほとんどはファルコン内で思い思いの時間を過ごしている。
 菓子作りなど、長いことしていなかった。記憶の底からひとつひとつ手繰り寄せるような心地で、ロックはなんとか生地を作り終える。型の代わりのふぞろいなカップに生地を流し入れ、オーブンに入れる頃には、夜も随分と遅い時間になっていた。
 使った器具を洗っている間、常日頃から水は節約して使え、と言うセッツァーの言葉が頭を過る。余計なことをして洗い物を増やしたと知られれば、当然渋い顔をされるだろう。どうやって言い繕おうか、そんなことを考えている間に、辺りにはケーキの焼ける甘い匂いが漂い始めた。
「なにしてるの、ロック?」
 そうなると、誰かが寄ってくるのも予想の範疇。見慣れた顔がひょこりと現れて、ロックは思わず破顔した。
「ティナ」
「いい匂いね。なぁに?」
 にこにこと微笑む彼女の後ろから、セリスも姿を見せる。近頃一緒に行動することの増えた二人をどこか微笑ましいような気持ちで迎えて、ロックはボウルを拭いていた手を止めた。
「ケーキだよ。もう少しで焼けるから、食べるか?」
「焼いたの? ――ロックが?」
 信じがたいものを見るように、二人が一様に目を丸くする。それがおかしいやら少し腹立たしいやらで、ロックは苦い表情を浮かべた。
「変か? 結構得意なんだけどなぁ」
「変……じゃ、ないけど」
 ちょっと意外、と、ティナが呟く。ティナの隣で同調するセリスに、やはり苦笑する他なかった。
「でも、すごいわね」
「そうね。いい香り」
 顔を見合わせて、セリスとティナはくすくすと笑う。周囲に薫る砂糖の焦げる匂いに、その笑い声はとても釣り合って思えた。世界を取り巻く破滅の匂いすら忘れさせるほどに。
「良かったらみんなも呼んできてくれるか。……って、リルムとガウはもう寝てるかな」
 匂いを嗅ぎ付けて真っ先に来るとしたら、あの二人のどちらかだろうと思っていた。だがそうではなかったことを考えるに、まだ幼い彼らはとうに夢の中にいるのだろう。多分ね、とセリスが肩を竦めたのを見て、もっと早くに作ればと後悔したが、もはや遅い。
「ま、あいつらには明日の朝でいいな」
「そうね。じゃあ、みんなに声をかけて来るわ」
 言って、ティナが駆け出した。しっぽのように揺れる髪を見送って、一度オーブンの様子を見ようと踵を返し――セリスが動かないことに気付いて、彼女の方に向き直った。
「どうした?」
 てっきりティナに着いて行くものだと思っていたから、ロックは首を傾げる。問いかけに、彼女の方こそが首を傾げて聞き返してきた。
「……でも、どうして?」
「ん? どうってわけでもないんだけど」
 ただ食べたくて、と続けようとした瞬間、
「そうじゃなくて」
 セリスがロックの言葉を遮った。
「ケーキの作り方知ってるなんて、って思ったの。誰かに教わったの?」
「あ? ああ」
 それは思ってもみなかった疑問だった。無意識に一瞬息を詰めたロックは――咄嗟に、嘘をついた。
「――ばあちゃんが好きだったんだよ、こういうの」
 ロックの祖母は料理が得意で、よく焼菓子を作ってくれた。それは嘘ではないが、作り方を教わったのは祖母からではない。
 しかしロックは敢えて隠したまま、曖昧に微笑んで誤魔化した。そうなんだ、と笑ったセリスの様子を見るに、彼が吐いた嘘には気付かれていない。
「ロックはなんでも出来るのね」
 焼き上がりを心待ちにするかのように、セリスはオーブンに近付いて、中を覗き込んだ。ふくらむ生地にしきりに感心した様子の少女を見て、ロックはひそかに眉をひそめる。自然と漏れそうになる溜息を、すんでの所で隠した。
(こういうことも、知らないんだよな)
 彼女は菓子の作り方を知らない。ただ混ぜて焼いただけのだけの簡単なものに、珍しく尊いものを見るように、輝いた眼差しを向ける。
 この程度のケーキの作り方なぞ、誰だって知っているだろうに。どこにでもいるような平凡な村娘ならば、誰だって。
 特別な日にだけでなく、自分のため、家族のため、あるいは恋人のために――日常のふとした瞬間に作られる優しい甘さは、彼女たちの凡庸な生活の折々に花を添える。普通の娘として生活をしていれば、誰かに教わる機会など、数えきれぬ程あっただろうに。
 しかしセリスにも、ティナにも、そんな機会は訪れなかった。
 こんな些細な事からでも彼女達の生き方が見えてくるようで、ロックは顔を顰める。それほどまでに、この少女が生きて来た場所は異質なものだったのだろう。
 思えば、こういう事は今までに幾度もあった。セリスにしろティナにしろ、驚くほどものを知らない。ことありふれた日常を生きる為の知識と、日々をより豊かに過ごしていく為の知恵と言ったものに関して、ほぼ全く縁がないという有様である。二人よりもずっと幼いリルムの方が、よほど多くの知恵や知識を身に付けていた。
 トレジャーハンターとして世界中を駆け回り、野営も日常茶飯事なロックにしてみれば、なおのこと彼女達の無知さは信じがたい。獣の捌き方も、植物や茸の毒の有無もわからない。生木を薪にと切って来た時には言葉もなかった。
 だが考えてみれば、彼女たちには必要がなかったのだろう。生きる事でなく、戦う事を求められた。ただ殺し続ける事を。
 なればこそ、菓子の作り方など教えられなくて当然、知らなくて当然なのだ。その事実の意味する所、あまりの惨さにひどく心が痛んだ。
「本当に器用なのね」
『本当に器用なのね』
 呟いたセリスの顔が、不意に、記憶の中に残る影と重なった。
『教えたのは私なのに。ロックの方が上手なんて、なんだか癪に触るな』
 どこにでもいるような平凡な村娘。凡庸な生活を送っていたありふれた少女の、流れるような髪、少しだけむくれた顔。
 ロックはあわてて頭を振る。
 だが一度思い起こされたものは、容易く消えてはくれなかった。いつでも、そうだ。四六時中考えているわけでは決してないのに、ふとしたことから唐突に甦り、思い出は彼の心を支配する。現実と過去が交差するような感覚に抗おうとしながらも、彼の目にはレイチェルの顔が映っていた。
 ――彼女は、レイチェルは不器用な方だった。いびつに膨らんだスポンジ、形の歪んだクッキー。デコレーションに至っては言葉のかけようがない。菓子だけでなく、料理も決まって不格好だった。味は悪くないのにどうしてこれほど見た目が悪いのかとロックが顔を顰めると、決まって彼女は苦笑する。そして言うのだ。
「文句を言うなら、ロックが作ってみてよ!」
 そうして、ロックはケーキの焼き方を教わった。彼は生来器用な方だから、すぐに覚え、そして彼女よりも巧くなった。
 ロックの作り上げたケーキを味わい、彼女はすっかり拗ねてしまった。もう二度とロックには作ってあげないと、そう言って頬を膨らませる。苦笑しながら、ロックは彼女の髪を撫でた。そして、機嫌取りのつもりで約束をする。
 守られないことなどないと、そんな未来はありえないと思っていた。幸せだった頃の、ささやかな約束――。
「……セリス」
「何?」
 振り向いた顔から、もうレイチェルの影は消えていた。ロックは確かにセリスを見つめながら、知らず詰めていた息を吐く。
「作り方、教えてやるよ」
「え?」
「簡単だから、すぐ覚えられるだろ」
 言いながら、手近な紙に簡単にメモを取る。
「材料は……」
『材料はね……』
 彼自身が初めて教わった時、その手順と説明を思い出しながら、ペンを滑らせる。
「小麦粉と、バターと、砂糖と卵。同じ分量用意して、混ぜて焼くんだ」
「それだけ?」
 意外そうに声を上げたセリスに、過去の自分の姿が重なる。
『それだけか?』
『ええ』
 驚くロックに、レイチェルはさも当然のことのように頷いた。あの時の彼女と、今度は自分が同じ立場であることが奇妙に感じる。
「ああ。それだけだ。あとは木の実とか、ナッツ類を入れてもいいけどな」
「……それ、だけ?」
 同じ言葉を繰り返すセリスに、ロックは材料――と言っても、最初に言った通りの四品と、計りやすく作りやすい分量だけを列記した紙をひらひらと振ってみせた。
「そう。これだけ」
「なんだか、思ってたより……」
「簡単だろ? でも一応――」
 唇を動かしながら、セリスを見つめる視線の向こうで、また思い出す。
『混ぜるだけって言っても、順番と手順があるのよ』
 一語一句を、その表情までをも思い出せるのが不思議だった。
 実演を兼ねて教えてくれた彼女のようにしてやれれば良かったが、生憎卵は使い切ってしまったため、もう一度作ることは出来ない。やむを得ず、手順を実際に見せるのは後回しにして、説明だけを記しながら伝えて行く。
「ただ混ぜるだけじゃ駄目なんだ。手順通りやらないとうまく膨らまないし、おいしくならない」
「へえ……」
「だけど、そんなに難しくないんだ。だから――」
 その時、遠くからざわざわと話し声が聞こえる。キッチンの入り口を振仰いだ瞬間に、大きな影が駆け込んできた。
「焼けたか!?」
 開口一番、マッシュの大声が響く。目を輝かせた彼に続いて、ティナに連れられた仲間達がぞろぞろと入ってきた。
 入ってきた人数の予定外のを多さに、ロックは顔を顰める。量が足りるだろうか、そう思案してようやく気付いた。
 そろそろオーブンから出さないと、焦げてしまうかもしれない。
 一旦セリスとの会話を切り上げて、ロックはケーキを天板ごと取り出した。ふぞろいな大きさのカップから、ふっくらと膨れ上がったケーキ。少し焼きすぎたせいで見栄えは良くないが、外に出れば一層香りが強く立ち上り、自然と歓声が上がった。
 やはり眠ってしまったらしいリルムとガウの分を確保してから、適当に皿に取り分ける。用意している間にエドガーが紅茶を入れ、深夜に近い時間にも関わらず、思いの他大人数での茶会になった。
 ただでさえ戦い続きで疲れていたせいもある。久々に口にするだろう甘い焼菓子は、仲間達から絶賛された。話題の中心にあって、また、彼は唐突にレイチェルと過ごした時間を思う。
 そういえば、あの時もこうやって夜遅くまでレイチェルと話をした。焼きたてのケーキはいつのまにか冷め、しかし時間をおけばまた風味の変わる菓子を楽しみながら、明け方近くまで。
 気付けばセリスがロックを見ていた。視線が合うと微笑む彼女に、思い出す。
『俺がいつでも作ってやるから』
 あの日、あの時、あの少女に向けた約束だった。
 ロックはいつでもと言った。お前が望めばいつでもと。しかし、その機会は、もう二度と訪れることはない。失われてしまった時間と、大切だった人。思い出の中にだけ存在する感傷と、懐かしさだ。それはわかっている。
 だからもう一度、今度こそとこころに誓い、彼は言葉を選ぶ。
 同じ約束はしない。よく似た面差しに、確かにセリスの目を見ながら、ロックは笑う。
「次は、一緒に作ろう」
 ちゃんと教えてね、と答えたセリスに、ロックは思う。
 もっと難しい菓子でも良い。時間をかけても、教えてやろう。ロックの教わった、セリスの知らない多くのことを。
 一緒に。


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2008.03.11.up