寒月
季節が、戻る。
世界が再生してから。
新緑が萌芽するように。
風が甦るように。
季節もまた、その息を吹き返す。
春には花が。
夏には風が。
秋には空が。
それぞれがそれぞれの輝きを取り戻して、かつてそうあったのと同じように、煌めく。
そして、今も。
冬の冴え冴えとした空気の中で、月が美しく輝く。
濃い藍に染められた紗の幕を、切り裂くようにして白々と光を放つ、細い細い三日月。
━━あの頃には、想像する事さえ出来なかった景色。
灰色に淀んだ空に、赤銅の色をした月影が浮かんでいた頃には、思い出す事さえ適わなかった、穏やかで美しい色彩。
世界のあるべき姿。
……まだ全てが取り戻された訳ではない。
これからも、取り戻す事など決して適うはずのない事も、存在する。
それでも━━開いた掌の上には、確かな感触があった。
暖かい熱を持った、何か。
それは、あるいはこの景色のように。様々な形で、世界を彩って行く。
この感覚は、闘いの証。
この感触は、記憶の証。
仲間と、敵と。
大切なものと、そうでないものと。
得たものと━━失ったものと。
ともすれば忘れそうになる、痛みと。
ともすれば慣れてしまいそうになる、安らぎと。
今では『過去』となってしまったあの時の、確かな証明。
この手のなかにあった、全てのものの、残像――
「……セリス?」
ぼんやりと考え事をしていた彼女に、突然背後から声が掛けられた。聞き慣れた男の声が。
――かつては、そんな事はあり得なかった。人が背後から近づいてくれば、その人間が声をかけられるような距離に来るよりも早く、気配に気付いて振り向くことが習慣になっていたせいだ。
そうする事の理由は簡単だった。そうやって常に自分の周りの気配を熟知する事が、自分自身の安全につながる。逆にそうしなければ、命を護る事すら出来なかった。なにしろ周囲は敵ばかり、そうでもしなければ生き延びられなかったのだ。
しかし最近では、常に周囲に意識を向けなければならないような危険な状況ではなくなってきた。生死の境目の、その隙間を縫うようにして歩くのではなく――約束された安住の地で、安らいで眠る生活。
それは、悪くない感覚だった。むしろこの上なく心地よくすら感じる。
だがその心地よさに甘えてしまっていたのも事実だった。暫くこの生活を続けていただけで、こんなにも感覚は鈍ってしまっている。僅か一年足らずの間で。
そう考えて、セリスは思わず苦笑した。そしてそのまま、振り返る。
深夜の浜辺、月光に照らし出されて立っていたのは、ひとりの青年だった。
「……ロック」
名を呼べば、彼はいつものように柔らかい笑みをセリスに向ける。年の割には若く見られる彼の笑顔は少年のようで、ひどく優しい。見るものを静かに包んで癒すようなその微笑みに、今までどれだけ助けられて来ただろう?
「なにしてんだ、こんなとこで――こんな時間に」
問いかける声も、その笑みと同様に優しかった。口調も詰問するような色は全く感じられず、ただ単純に思った疑問をそのまま口に出した、といった所なのだろう。事実、セリスがなんとなく言葉を濁してそれに答えずにいても、特にそれを気にしたふうもなくセリスの隣にしゃがみ込んだ。
――並んで、小さな小島の小さな浜に座って、月を眺める。時が止まってしまったかのような静寂のなかで、ふとセリスは彼の声を耳にした。
「……綺麗だな」
ぽつりと呟かれた言葉に驚いてロックの方を見ると、彼はそれまでと同じように、魅入られたかのようなどこか恍惚とした表情で夜空を仰いでいる。彼としては、それを声に出したつもりがなかったのかもしれなかった。
「――そうね」
だからかもしれない。セリスがそう答えると、彼もまた驚いたようにセリスを見遣った。
急に視線があった事がなんとなく可笑しくなって、セリスは微かに笑った。するとロックもそれにつられたのか、同じように笑う。
そうして、暫く笑って。
またどちらからともなく空に視線を戻し、先程と同様にふたりで空を眺める。
――本当に、綺麗な空だった。
果てのない暗闇に星々はきらきらと瞬いて、時折線を引いて流れて行く。その中心で、夜空を切り取るようにして姿を表すのは、細い三日月。
青白いその輝きは海面に反射して、あたりをふしぎな光彩で包んでいる。
冬の空気は肌を刺すように冷たく、吐く息は白くなってしまっていたけれど――どこか暖かさを感じるのは何故だろう?
……それは、多分。
セリスは月の光をその瞳に映しながら、そっとひとりごちた。
多分、それはこの人が居るせいなのだと。そう思う。
彼女は知っている。身を切るような冷気よりもよほど辛い、孤独という名の寒さを。
心に開いた穴から吹き込む、隙間風の冷たさを。深い闇の底に蟠る、氷の痛みを。
今はもう、それらを感じることはなくなった。だからこそ、思う。
閉ざされた心は、それと感じることはなかったけれど、今なら分かる。あの時の痛み、苦しみ、憎しみ――その奈落のような深さを。
それを救ってくれたのは、この人。
闇に投げ込まれた彼女に、その暖かい手を差し伸べてくれた。彼女の心を捕らえた鎖を、いとも容易く解き放ってくれた。
そして今なお彼は、彼女の傍らで微笑み続ける。その笑顔の穏やかさ。
冬の寒さをも癒す、暖かさ。
彼が隣に在る、それだけの安らぎ。
「……温かいね」
思わずセリスが呟けば、彼はゆっくりと彼女の方を向いた。一瞬何かを考え込むような表情をしてから、そして破顔する。
「――寒いだろ」
小馬鹿にしたような言い方だったけれど、多分ロックはセリスが言おうとしたことの意味を分かっているのだろう。彼もまた、セリスのものと似たような痛みを、その魂に刻み付けてきた。
それでも、ロックはただ笑う。茶化すように苦笑しながら、それでもちゃんと受け止めている。
「ううん。やっぱり……あったかいと思う」
その笑顔が、存在が。春の光にも似た優しさが。
やっぱり暖かいと思った。
「……何言ってんだよ。」
そう言って、ロックはセリスの身体を引き寄せた。
「俺は寒い」
照れたように――いや、事実照れていたんだろう――顔を逸らしながら洩らす彼が、妙に可愛らしくて思わず笑みが零れた。笑うな、と呟くその姿が、どうしようもなく可笑しくて、愛しい。
「……ありがとう」
何となくセリスが呟いた言葉には、これといった反応がなかった。だが、やっぱりロックには伝わっているんだと思う。流れていく白い吐息をぼんやりながめながら、セリスは根拠もなく、しかし確かにそう感じた。
――月が、輝く。
重なるように照らし出された影が、白い白い砂浜に僅かながらの陰影をつけていた。
となりには、誰よりも大切なたったひとりのひと。
月明かりに照らされた表情は、とても穏やかなもので。
寄せ合った身体から伝わる熱が、周囲の寒さにも勝って心地よかった。
その心地よさが眠気を誘うのをセリスがぼんやりと感じ始めた頃に、ふと彼女の傍らで囁くような声が響く。
「……やっぱり、暖かい……かも、な」
ぽつりと呟いた声の主を振り仰げば、彼の耳が赤くなっているのが月明かりの中でもはっきりと見て取れた。
「寒いんじゃなかったの?」
からかうようにいえば、更にその顔が朱に染まるのがわかる。彼女がおかしがってくすくすと笑えば、
「うるせえ」
と、拗ねたようにそっぽを向いてしまった。それがまたひどく可笑しい。
こんな風に穏やかに笑うことも以前にはなかった。それもこれも全て、このひとが与えてくれた安らぎ。
今もこうして与え続けてくれる、至上の優しさ。
「――そろそろ、戻るか」
いつの間に機嫌を治したのか、微笑みながらロックがそう促してきた。自分は先に立ち上がり、未だ座ったままのセリスに手を差し伸べる。
――出逢った頃と変わらずに、いつだって何気なく差し伸べられる手。
たったそれだけの事が、泣けそうなほどに幸福だと思う。無条件に与えられる微笑みと、腕と。その存在。幸福。
「……ええ」
頷きながら、その暖かい彼の手を取った。こんな寒さの中でだってその熱を失わずに感じられる。
――かつて、闘いがあった。憎しみがあった。痛みがあった。
唯一の家族を失って、思い入れはなくとも自分の生まれ育った場所を失った。かつての同胞も、仲間も失った。大切なものをたくさん、亡くした。
世界は今、再生の兆しを見せ、これから取り戻されて行くものは決して少なくないだろう。しかし、もう二度と取り戻せないものも数多く存在する――
だけど、とセリスはロックの横顔を見つめた。
……得たものもある。それはとても大きな意味があることだと、セリスは知っていた。
視線に気付いてロックが彼女を見遣る。そしてまた、彼は笑う。
それはとても意味のあることだと――彼女は少しだけ泣きそうな気持ちで、ぼんやりと思った。
並んで歩き出す彼らの上には、月の輝きがある。取り戻された、白い輝きが。
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2005.4.28.up.(written:2004.3くらい)