煌々

 揺らぐ星。
 輝く太陽。
 光を弾く水面も、雫をこぼす花も。

 きらきら きらきら
 ひかるせかい。

 わたしが初めて見た空。
 わたしが初めて聞いた風。
 わたしが初めて踏んだ土。
 わたしが初めて触れたせかい。
 きらきらひかるせかい。
 希望と未来に溢れた、ちいさな箱庭。

 おかあさんは 笑っていた。
 おとうさんも 笑っていた。
 わたしも 笑っていた。
 甘い甘い夢と、隠し味程度の現実で出来た、砂糖菓子のような庭園。
 触ってしまえば、溶けて崩れて儚く消える、そんな幻のような――記憶の中の、安らぎ。

 きらきら きらきら
 光って、輝く。
 わたしのせかい。


「リルムー!」
 今いる場所から、遥か遠く。
「リルムやー」
 随分と離れた下方から、聞き慣れた老人の声が響いていた。
「リールームっ!リルム!」
 何度も何度も同じ名前を、まるで言葉を覚えたての赤子のように繰り返す。いい加減飽きてきそうなものだが、それでも彼は辛抱強くそれを続けていた。
「うるっさいジジイだなぁー……」
 その声に、思いっきり渋面をつくりながら、リルムは大きく溜息をつく。
 ――ここサマサの村では、そんな光景はそれこそ日常茶飯事だった。だからだろう、大声でリルムを呼び続ける彼女の祖父――ストラゴスを見て、村人たちはくすくすと笑いを洩らしている。
(恥ずかしいっつの)
 そう独りごちて、リルムはその場――リルムの絶好の隠れ場所となっている、自分の家の屋根の上――に寝転んだ。
「あっつー……」
 思わず口から出た言葉に、自分で苦笑する。
 そう、そこは恐ろしく暑かった。
 リルムの家は日当たりがいい。勿論、今リルムが寝転がる屋根の上もだ。そこは、例えば春先の昼頃などにはこれ以上ないほどにぽかぽかと温かい陽射しが降り注ぎ、リルムの大好きな場所となる。
 しかし、生憎現在季節は夏。
 もともと四季を通じて気候の変化は少ない土地ではあったが、それにしたって夏は暑い。そんな中で、陽射しを遮るものが一切存在しないこんな場所にいれば、暑さを感じるのは当然だ。
 そうはわかっていたが、それでもやっぱり彼女はここに来ざるを得なかった。何故なら――
「リルムーーっ!」
 先程よりもヒステリックな調子になりつつある声の主、ストラゴスがいるから。
(……うるさい)
 胸中でそっと毒づきながら、リルムはごろりと身体を反転させて、うつ伏せに寝転んだ。そしてそのまま屋根の端までずるずると匍匐前進し、そこから眼下に村を見渡す。
 その先にストラゴスの姿を捕らえたところで、リルムは右手を前に突き出した。人さし指を差出し、ついでに左手も添えて、
「えい」  と、撃つような仕草をする。
 だがストラゴスはと言えば、そんな事にはもちろん何の反応も見せず、そのへんの人を捕まえてはりルムの居所を尋ね続けていた。
 それが、彼女には妙に腹立たしくて。
「クソジジィ……」
 リルムは思わず毒づいた。
 相変わらず、陽射しが強い。じりじりと灼かれながら、なんだかそれすらもストラごスのせいのような気がして、リルムは更に機嫌を悪くする。
(冷たいモンでも、買っておけばよかったかな)
 今更ながらに後悔して、彼女はまた嘆息した。今となっては遅すぎる。下に降りれば、確実にストラゴスに捕まってしまうだろう。
 そうなればどうなるか。自分がどんな気持ちになるか。
 それを想像して、リルムは思わず顔をしかめた。
「ちくしょー」
 八方ふさがりだ。こうなったらもう、どちらかが諦めるまで闘いは続く。
 なら――
 負けられない、と。そう思ってしまうのがこのリルムである。
 いつも被っている大きな帽子を、少しだけ深くかぶりなおして。
 リルムは少しでも日影が出来ている場所に移動し、そこでひたすら待つ事にした。
「リールームー」
 あの『じじぃ』の声が、やがて聞こえなくなるであろう、その時まで。


 事の発端は些細な事だった。
 ちょうど昼頃に、彼女はストラゴスに呼ばれた。声に応えて部屋からでると、キッチンには彼女の好物であるパンケーキ。どうやら昼食らしかった。
 と、そこまではいい。
 だが問題はその先――本当に、些細な事だったのだが。
 ……メイプルシロップが、切れていたのだ。
 メニューは彼女の大好きな、パンケーキなのに!
 メイプルシロップが!
 絶対に絶対に必要なメイプルシロップが!
 ない!
 ……確かに、前にパンケーキが出た時に、それを使い切ってしまったのはリルムだ。
買い置きがない事も、その時点でわかっていた。
 だが、その時点で彼女はストラゴスと約束していた。
「おじいちゃん、次の時までにちゃんと買っておいてね!」
 絶対だよ、と付け足しておいたにもかかわらず。しかし、そこにメイプルシロップはなかった。
 なかったのだ。
 目の前には大好物の、ストラゴス特製の卵ふわふわパンケーキがあるのに。美味しい紅茶も入っているのに。お腹だってぺこぺこなのに。
 メイプルシロップだけがない。
 どうして、これを笑顔で見逃す事が出来ようか。
「――おじいちゃんのバカっ!」
 取り敢えず、年の割には多い語彙を駆使して彼を一通り罵って、家を出てきたのが一時間ほど前――

「お腹空いた……」
 そんな風に呟くのは何度目だろうか。口に出せば出すほど空腹感が増すのは、多分気のせいばかりではないだろう。
 相変わらず、そこは恐ろしく暑かった。じっとりと汗ばんだ身体に、同じく湿った服がまとわりついて気持ちが悪い。まだ陽射しが弱まるほどの時間でもないから仕方のない事だ。
 対策を練ろうにも、今となってはもうどうしようもなかった。
 彼女の下からは、未だにストラゴスが彼女を呼ぶ声が響き続けている。もっとも、その声にはだいぶ疲労が見え、覇気のないものだったが。
 ――この分だと、あともう少しでストラゴスは諦めるだろう、と。
 リルムはそう見当をつけ、そう思う事で陰鬱な気分をまぎらわせようとした。……が、あまり効果はない。
「……サイテー」
 そう言いながら、彼女は空を見上げた。その先には、眩い輝きを放つ、真夏の太陽。
まともに上を向く事すら出来ず、リルムは目を細めた。
 ――事の発端は、本当に些細な事だった。
 些細すぎて、自分でも馬鹿馬鹿しくなるような事だった。こんな嫌な思いをするには瀟々割に合わなさ過ぎる。
 だが。そんな些細な事でも、物事のきっかけには成り得る。
 そもそも、ただそれだけの理由でここまでの自体に発展するほど、リルムは幼くも子供でもなかった。少なくとも、自分ではそう思っている。
 だがタイミングが悪すぎた。
 リルムは時折どうしようもなく機嫌が悪くなるのを。いや、というよりも――正直な所を言えば、ストラゴスや周囲の自分を取り巻く全てが嫌になる、と言う方が正しいのかもしれない。

 そしてその理由も、リルムは知っている。
「……おかあさん」
 知らずのうちに、口からぽろりと声が洩れた。
(……前は、幸せだったな)
 まだ自分が本当に幼い頃の記憶。微かに残るそれを、リルムは大切に大切に抱き続けていた。
 幸せな世界。そこには父がいて――母がいた。花が咲き乱れる庭先で、母がくすりと笑った顔が、今も脳裏に焼き付いている。
 朧げな景色の中で、響く笑い声。今とは違う、ただひたすらに甘く優しい幻のような思い出。それはいつだってキラキラと輝いて、リルムの心をそっと癒した。
 けれど。
 それは、消えてしまった。あの時傍にいた優しい人も。輝く世界も。もはやそれらは思い出のなかにだけ存在し、現実に足り得ない。
 今ここにあるのは、血のつながっていない祖父と、穏やかだが少々閉鎖的すぎるきらいのある小さな村とその住人。そして、かつての世界が夢想だったと言う現実――
 今の生活に不満がある訳じゃない。ストラゴスだって本当によくしてくれて本当のおじいちゃんだと思っているし、村の皆も大好きだ。だけど。
(お母さん――お父さん……)
 大切な人の記憶があるから。その違和感に、どうしても抗いたくなる時がある。たとえその記憶が、本当に幻のように儚いものだとしても。
 だから時折、意味のない事でああしてストラゴスに反抗して、責め立てて、逃げ出してしまうのだ。そんな事したってなんにもならないと、わかっていても。
 そうしないと、あの光を忘れてしまいそうで。忘れてしまったらもう二度と取り戻せなくなりそうで。それが恐い。
 だから、だから――
「リルム!」
 と、突然。大声がリルムの鼓膜に突き刺さった。
「こんなトコにおったのか!」 
「……ジジイ!」
 リルムも昇るのに使った屋根裏に続いている窓から、顔をだしたストラゴスが怒声を上げている。――どうやら、諦めた訳ではなかったらしい。もそもそと手摺に登って、リルムの正面に立ちふさがる。
(……マズい)
 直感的にそう思って、リルムは胸中でそっと舌打ちした。退路を断たれ――といってももともと退路なんて先程の窓しかないのだが――後はもうストラゴスの雷が落ちるのを待つしかない。
 深く息をつきながら俯いて、おとなしく怒られようと腹を括ったその瞬間。
「……心配したゾイ」
 と。リルムにしてみれば全く予想の範疇からかけ離れた言葉がかけられた。驚いて顔をあげれば、その場にぺたりとへたり込んでしまったストラゴスがいる。
「この老いぼれに、余計な心労をかけさすでない」
 言って、彼はリルムの方ににっこりと笑顔を向けた。深い皺の刻まれた顔が、更に多くの皺でくしゃりと歪んだ。
「おじいちゃん」
 予想もしない展開に、思わず唖然となって言葉を継ぐ事が出来ない。そんなリルムの心中を知ってか知らずか、いずれにしてもストラゴスは本当に安堵した表情で、にこにこと笑い続けていた。
「全く……寿命が縮んだわい」
 洩らす苦情も、その顔が笑顔なせいだろう、嫌な感じはどこにもない。
 そんな彼を見ていたら、なんだか――
 なんだか。
 ……何かを堪えるような心持ちで、リルムは俯いた。そしてその状態で、ぽつりと呟く。
「……大丈夫だよ」 「ん?」  聞き取れなかったのか、ストラゴスがリルムに顔を近付けながら聞き返してきた。
その顔が妙に間抜けで、だけどそれになんだか不思議なほどの安心感を憶え、 リルムはにっこりと笑んだ。そして、いつもと変わらぬ口調で言い捨てる。
「大丈夫って言ったの!寿命なんてちょっとくらい縮んでも、まだ当分は死なないから!」
 そう言っても、まだ彼は意味がわからずに、きょとんとした表情でリルムを見つめている。仕方がないから、リルムは更に丁寧に言葉を補った。
「じじい、しぶとそうだもんねー」
 憎まれっ子は世に憚るんでしょう?、と付け足せば、ようやくストラゴスはその意を汲み取って、
「リルムっ!」
 と、いつものように顔を朱に染めて怒り始めた。そしていつもそうしているように、伸ばされた手をリルムがひらりと躱す。屋根の上と言う最悪の足場であったが、それでもリルムの動きは普段通りの俊敏さを持っていて、高齢のストラゴスが適うべくもない。
 リルムはバランスを崩してひとりで慌てているストラゴスを尻目に、さっさと窓から室内へと戻った。
 そうやってふざけながら階下におりて、視界にはいってきたのは――
「……あ」
 リルムのお気に入りの、メイプルシロップの瓶。
「アイスクリームも買ってあるゾイ」
 追いついてきたストラゴスの声が、唐突に背後から聞こえた。
「お前、好きだったろう」
 今日は暑いしな、と言いながら、彼は台所へと消えていく。恐らく――昼食をつくりなおすつもりなんだろう。リルムが台なしにしてしまった、本当なら楽しかったはずの、昼食を。
 そしてリルムはひとり、ダイニングに残され、ふと思う。
 ……やっぱり。今の世界も悪くない、と。
 そう思ったら、何だか妙に可笑しくて、リルムは笑った。
 そう、悪くない。これが今の現実なら。
 きらきらひかるせかい。
 だけど、そうじゃないから世界は世界なんだと思う。よくはわからなかったが、多分『現実』なんてそういうものなんじゃないだろうか。夢想はひかる、だからこそ思い出であり、幻となる。
 夢の世界は本当に幸せで、今の世界はそれほどでもないけれど。やっぱり文句を言うほど悪いものじゃないと思う。時々は抗いたくもなるけれど、やっぱりこの『くそジジイ』が大好きでしかたない。そんな自分がいることに、リルムは思わず苦笑した。
 村の友達や近所のおねえさんや、ジジイの友達も隣の子供も、みんなみんな好きな自分が今、ここにいる。
(……憎まれっ子でよかった)
 ふと、リルムは胸中で呟いた。
 だったら、もう少し一緒にいられる。ついでにもう少しなら、寿命が縮んでも大丈夫そうだ。
 そんな風に考えたら、また笑いが込み上げてきた。一生懸命フライパンと格闘している祖父の後ろ姿を眺めながら、ひとりでクスクスと笑う。

 キッチンから顔を出したストラゴスが、不思議そうにそれを見ている。


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2005.4.28.up.(written:2004.3くらい)