落葉

 彼女は、暗闇の中で目を開けた。
 眠っていた訳ではない。だが、思考には寝起きの時のように霞がかかり、頭が酷く痛む。
 目を開いても、辺りには何も見えない。
 ――否。
 何もないと言う方が、正確だろう。
 もし辺りを見通す明かりがあっても、それで何かが照らし出される事があっても。
 それでもここには、何もない。彼女に触れられるものは何もない。
 ……ここはそういう場所だった。
(痛い――)
 開かれた瞳が外気に曝され、ひどく痛む。かつては当然の物だった感覚が、今の彼女にはこんなにも辛い。
(……寒い)
 目覚めた四肢の感覚が苦痛を伝える。身体の芯から凍っていくような寒さに襲われ、彼女はそれから逃げるように目を閉じた。
 すると、どうした事か。
 彼女の中から、痛みや苦しみの全てが消えていった。
 まるで霧散するように散り散りになって、跡形も残らない。
 彼女は安息の中に居た。
 ――死、という安らぎの中に。
 抗いさえしなければ、そこには一切の苦痛が存在しない。ふわふわと何ひとつ実感がない代わりに、痛みも感じずにすむ。
 それは正しい在り方では、ないのかもしれないけれど。
(ロック……)
 彼女はそっと、思い人の名を呼んだ。
 ロック。かつての彼女の大切なもの。
 ほんの一時手放してしまったが為に、傷つけてしまった最愛の人。
 誰よりも、何よりも、大切な――
(どこに、いるの……?)
 彼女は今一度目を開く。刹那、急激に彼女を襲う激痛の渦。しかし彼女は懸命にそれに耐え、目を凝らした。
(どこ――?)
 祈りはやがて叫びに変わり、彼女は漆黒の闇の中、その腕を探るように伸ばした。
 その手をほんの少し前へと進めるだけで、その都度に傷が増えていく。
 あまりの痛みに、何度も意識を飛ばしかけながら――それでも、彼女は足掻いた。
 叫びながら。祈りながら。
「ロック!」
 声を出す度に、引き千切られる喉。咳き込みかけた口内には、血にも似た苦い味が広がる。
 それでも彼女は止まらなかった。足掻いて、もがいて、やがて――
 彼女の目の前に、唐突に光が広がった。

(まぶしい――)
 あまりの急激な明るさの変化に、目が慣れるまで彼女はただ立ち尽くしていた。辺りの様子はわからない。
 ただ、植物の薫りがした。それから、流れる風のにおい。
 少なくとも、今まで自分がいた場所ではない、とそれだけは分かる。
 徐々に目が慣れるにつれ、彼女はその風景を少しずつ判別し始めた。
「ここは――」
 呟いて、その時になってようやく痛みが消えている事に気付いた。痛みどころか、身体に傷痕すら残っていない。先程の事が夢のようにも思えたが、しかし彼女は理解していた。
 先ほどの出来事が夢なのではなく、こちらが幻なのだと――
 それを自覚するのは悲しい事だったが、それでも彼女は無理矢理にその事実を飲み込んだ。そして、その上で辺りを改めて見回す。
 そこは、彼女の見知った景色だった。
「私の……家?」
 そう、そこは彼女の家の、庭先だった。ただし、辺りに人っ子一人いない。いや、そもそもこの空間には、生物の気配そのものがなく、ただ廃虚のように静まり返った風景と彼女だけが存在している。
 その異様さは、彼女にここが偽りの世界であると、再び自覚させるには十分だった。
 いずれにしても、ここはさして広さはないが彼女が『そこ』にいた頃、大好きだった場所の一つである。
 懐かしさを感じさせる光景。その庭には、一本の木が植えてあった。彼女の母親が幼い頃に植えたと言うそれは、小振の枝に毎年たくさんの葉を茂らせる。夏にはその青葉が涼しげな木陰をつくり、秋になれば紅く染まった葉が庭を鮮やかに彩った。
 そして今、その木を見る限りでは、季節は晩秋のようだった。 
 葉の色は既に赤から茶へと変じ、今この瞬間もまた一枚の葉がはらはらと散っていく。地面に積み重なった枯れ葉は、誰かに掃除される事もなく、ただ折り重なって降り積もっていた。
 それは、どうしようもなく悲しい景色。
 『人』、あるいは生物と言うものの全てが消え失せた、奇妙な風景。
 時が止まったかと錯覚するほどの静寂の中、音もなく散っては堕ちていく茶色の葉。
(もう、戻れない――)
 彼女はその光景を絶望的な心持ちで眺めた。
 そう――もう、戻れないのだ。
 木々から落ちたあの紅色の葉が、二度とその枝に還る事がないように。
 彼と言う名の花枝から堕ちた彼女も、再び彼とまみえる事はない。
 それが摂理だ。落ちれば、後は土に還っていくしかない。
 それを歪める事は――出来ない。
 彼にも。彼女にも。他の誰にだって。
 きっとそれは出来ない。
 どれだけ望んでも、望めば望むだけ今の世界に歪みを増やすだけなのだ。
(……ロック――)
 また一枚の葉が、彼女の目の前で散っていく。
 ……彼女は、知っていた。彼が今何の為に戦っているのか。
 全ては彼女の為である事を――知っていた。
 そして、希望を抱いてすらいた。いつか彼がここにきてくれる。
 自分を救ってくれる――
 その為なら、今の彼がどうなっても、それは仕方がないとすら思っていた。
 彼女が戻れば、今の彼の周囲の人間との関係も変わるかもしれない。
 だけどそれにどれだけの価値がある?
 彼女が彼のもとにいる事。
 彼が彼女のそばにいる事。
 それ以上の意味はないと、本気で信じていた。
(だけど――)
 けれど、それが間違った事だとしたら?
 ……自分が彼に間違いを犯させているとしたら?
 降り積もった葉が、微かに吹いた風に揺れ、飛ばされていった。彼女の髪も風に流され、静止画のような景色の中で鮮明な残像を遺して揺れる。
 異質なのは、この偽りの世界か。それとも今ここに立つ自分か。
 ――わかってる。
 彼女はそっと目を閉じた。
 瞬間、吹き付けていた風がやんだように思えた。同時に、辺りに立ち篭めていた枯れ葉独特の薫りも消え失せ、代わりにそれ以前までの――刺すような痛みが全身に戻ってきた。
 再び目を開けても、そこはもとの暗黒の世界。開いた目には、やはり焼けるような痛みが伴う。
 ……わかっていた。
 異質なのは、間違っていたのは、すべてだ。
 あの場にいた自分も。あの世界を作り出した自分も。今いるこの世界も。ここにいる自分も。
 何もかも、間違っている。そう信じようとしていなかっただけで。自分を中心に、
全てが捻曲がっていると、気付かずにいた。
 ――いや、気付かないようにしてきた。だが。
(……よかった。)
 瞳を閉じながら、彼女はそう心中で呟いた。
 今、やっとそれを認める事が出来た。気付く事が恐くて、認められなくて、目を背け続けていたけれど――やっと。
 認める事が出来たなら、多分止める事ができるはずだ。彼を。
 彼まで、この間違った暗闇の世界に、墜としてはいけない。
 悲しいけれど――未練が残らない訳ではないけれど――それでも――……
「ロック……」
 喉が痛かった。鋭い針を差し込まれるような痛みが、そこから全身に広がっていく。
 だが、涙が溢れたのは、多分そのせいばかりではなかったと、思う。

 やがて光に包まれる、その時まで。
 レイチェルはひとり、静かに涙を流し続けた。


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2005.4.28.up.(written:2004.3くらい)