際会

 男が彼女の存在を忘れかけた頃、不思議と彼女は彼の前に現れる。今までに数度、同じような事があった。
 その時は広い広い帝国の城、その広大な敷地内の一角で、彼女を見かけた。男、レオは目を見張る。彼が歩く長い廊下の向こうに、何度かすれ違った華奢な少女の影があった。それを確認すると同時、彼は彼女の事を思い出す。
 彼女は帝国内でも有名な存在だった。レオも当然その事を、彼女の持つ力の事を、知っている。だが、彼女自身の事は全くと言っていい程、知らない。何か言葉を交わした事はなかったし、そういえば彼女の名を聞いた事もなかった。
 そう、彼女は帝国内でも有名な存在だった。だが、レオを含めて、誰も彼女自身の事は知らない。彼女の名前も知られていない。ただ、彼女はその力故にこう呼ばれ、怖れられていた。
(生まれながらに魔導の力を持つ少女……)
 彼は心中で呟く。ふと立ち止まって、少女をじっと見据えた。
 彼女はよどみなく歩を進め、少しずつレオに近づいて来る。間近に来て、レオはようやく気付く。彼女は以前に会った時と、同じ格好をしていた。血のように鮮やかな赤い軽装鎧を身に付け、腰には女が扱うにしては重厚な剣。そして頭部には細い金属の輪が嵌められている。その輪の意味を、レオは以前に伝え聞いていた。
 彼の口中に苦いものが広がる。だがそれを顔には出さず、レオは深く息を吸った。
「……久しぶりだな」
 すれ違い様、彼は声をかける。前に会った時も、そうした。だが、そんな彼に対して、彼女はいつも返事をしない。反応をするどころか、視線をレオに向ける事すらなく、そのまま傍らを通り過ぎる。
 そも、彼の声が聴こえているのかいないのかも定かではなかった。もし聴こえているのだとしても、久しぶり、という言葉の意味は理解していないに違いない。それに、彼は少女の事を知っていたが、彼女はレオの事を知らないはずだ。彼女に対して名乗った事は一度もない。
 慣れた事だから、彼は特に気に止めなかった。少女のどこか焦点の合わない瞳、思考がはなから抜け落ちているかのような生気のない横顔、それらを眺めながら、固い回廊を進む彼女の靴音を聴く。高い位置で結わえられた髪が、彼女の動きに合わせて生き物のように揺れた。それは帝国城の仄暗い照明の中でさえ美しく光を弾く、金の色をしていた。
 すれ違い、過ぎ去って、ただそれだけの一瞬。邂逅というにはあまりにも幽けく頼りない時。レオは、無言のままで彼女を見送る。
 彼女はいつも何も言わない。それはレオに対してだけではなく、他の誰に対しても変わらないのだろう。そのように在るように望まれ、『作られて』いる。
 レオはほんの少しの間その場に留まり、彼女の後ろ姿を見つめた。少女に対する様々な感情が、彼の心中を波立たせた。だが、その感傷や同情に意味がない事を、レオは知っている。
 彼が諦めてかぶりを振り、そのまま踵を返そうとした時、ふと、少女が足を止めた。それまでの正確で狂いのない拍子が、突如脈略もなく途絶える。レオは目を見開いた。いままで一度たりともレオに向けられた事のない彼女の視線が、いま、真っ直ぐレオに向けられる。
「……。」
 彼女の薄い唇が動き、何事かを紡ぎ出した。が、その呟きがあまりに幽かなものであった上に、やや離れた位置にいたレオには、聞き取る事が出来ない。彼は数歩彼女に近付いた。逃げられるか、あるいはせめて後じさるだろうと思ったが、その気配はない。それを確認してから、レオは更に彼女に歩み寄る。わずかに半歩分ほどの距離を残して、彼女の傍らに立った。
 こうして間近で見ると、彼女は想定していたよりも更に小さい。彼女の結わえられた金髪は、そしてその表情のない小さな面は、レオの肩よりも更に更に下にあった。
 そのせいだろうか、憶っていたよりも、彼女の顔は幼げに見える。
「だれ?」
 少女がレオを見上げ、問いかけて来る。レオの瞳を見据えているはずのその双眸は、どこか虚ろだった。虚ろだった、が、今まで見たものとは確かにどこかが違う。光を宿したその瞳は、いま確かにレオの姿を映しているのだ。
 少女の見慣れない様子に、なんと返事をすれば良いものか詰まって、レオは自らの顎を軽く撫でた。首を傾げる代わりの、彼の癖である。その動作を数度繰り返していると、彼女が右腕を上げた。その手はレオへと伸び、彼女の細い指先がレオの指に、そして骨張った顎に触れる。
 驚きのあまり、レオはその手を振り払う事も忘れ、彼女を見ていた。先程レオ自身がそうしていたように、彼女の手が彼の肌を撫でる。
「……あなたは?」
 彼女が再び唇を開いた。やわらかい指の心地よさに浸りかけていたレオは、弱々しいその声を聴き、ようやく我を取り戻した。
 慌てて彼女の手に、己の手を重ねる。ふたまわりも小さく華奢な手の甲を掴むと、ゆっくりと下に降ろした。戸惑っているのか、少女の瞳が揺れる。レオは嘆息し、完結に訊いた。
「わかるのか」
 少女は答えない。答える代わりに、軽く首を傾げた。レオは再び溜め息をつき、心中で呟く。
(意識は……あるのか。何故だ?)
 レオは再び、顎に手をやり、考え込む。
 なぜ今この瞬間だけ、こうして反応を返すのか。今こうして意識があるのなら、なぜ今までそれがなかったのか。
 わからない事が、多すぎた。どういう事なのか、今何が起こっているのか、どうすればいいのか、……悩みに悩んで、彼は至ってシンプルな答えを選ぶ。
「……レオ、だ」
「レオ?」
 少女が鸚鵡返しに彼の名を呟く。レオは大きく頷いた。
「そう。わかるな」
 その問いかけにも、やはり返答はない。ないが、代わりに彼女の口の端が、わずかに上がったように見えた。  笑っている? 彼は息を呑んだ。
「わたしは……」
「なにしてる」
 と、少女が口を開きかけた瞬間、それを遮るものがあった。聞き慣れた耳障りで甲高い声に、レオは顔を歪めて振り返る。悪趣味な赤いマントが視界を埋めつくす。レオは呻くようにその名を呟いた。
「ケフカ!」
「ふん。どこに行ったかと思えば……」
「!」
 ケフカはレオと傍らの少女に歩み寄ると、手を伸ばした。ケフカの病的な程に細く筋の浮き出た腕が、それよりも更に細い少女の腕を掴む。怯えて身を竦ませる彼女を、ケフカは強引に自分の方へと引き寄せた。
「おい!」
 見かねてレオが声を荒げる。ケフカは彼に向き直り、にやと笑んだ。
「この娘、なにか言っていたか?」
「……」
 レオは嫌な予感を感じて、口を閉ざす。答えてはいけない気がした。が、ケフカはそのレオの態度から、なにかを感じ取ったのだろう。笑みを形作っていた唇がたちまちに歪み、不快そうに目を細める。
「……なら、まだまだ調整が必要だね」
 言いながら、ケフカは強ばる少女の顔に手を伸ばし、その額の輪を撫で擦った。そしておもむろに彼女の眼前で掌を広げると、口内で何事かを呟く。一瞬の後、彼女の体からは力が抜け、固い床の上に倒れ込む。重い音が辺りに響いた。
「なにを……」
 駆け寄ろうとするレオを、ケフカは制止した。そして、笑う。
「この娘は事は、私が皇帝から任せられている」
 私、皇帝、というふたつの単語を、ケフカはあえて強調した。そのように言えば、レオが黙する事をわかっていたのだろう。果たして、レオはケフカの思惑通りに、それ以上の追求を止めた。苦々しく歪められたレオの顔を見て、ケフカはいっそう満足げに笑う。
「ま、お前の出る幕じゃないってことだね。……おい!」 
 ケフカが声を上げると、ばたばたと二人の帝国兵が近寄って来た。
「遅いぞ! さっさと運べ!」
 叱咤され、彼らは慌てた様子で倒れた少女を抱える。意識を失っているのだろう、少女はぐったりとして動かない。手荒な扱いに口を挟もうとしたが、ケフカに無言のまま制され、レオは喉元まで出かかった言葉を飲む。無意識のうちに噛み合わせた奥歯が微かに鳴った。
 なにも出来ぬまま、少女は男二人に軽々と持ち上げられ、運ばれた。先ほどレオを映していた瞳は固く閉じられ、その内の様子を伺う事は出来ない。
「……邪魔したな」
 最後にそう囁いて、ケフカはくすくすと笑いながら、少女と共に去って行った。レオは釈然としない想いを抱えながら、何も出来ずにただそれを見送る。少女の姿は兵士の背中に隠されていたが、揺れる髪の先端だけが辛うじて見えた。
 彼らが廊下を曲がり、姿が見えなくなって、レオは深く息を吐く。
(……名前を、聞けなかった)
 その場に立ち尽くしたまま、彼はふと自問した。彼女の名を、彼女自身から聞ける日は来るのだろうか、と。
 ……次に会った時、彼はきっとまた久しぶりだと声をかけるだろう。だが、彼女はきっと、また彼の横を通り過ぎるだろう。

 答は知っている。レオは静かに項垂れた。
 彼の長い長い溜め息が、淀んだ帝国城に小さな風を起こす。だがそれは誰にも気付かれる事はなく、やがてはかき消えた。あの少女に届く事もなく。
 彼女はきっと、振り返らない。


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2010.4.14.up.(written:2007頃)
帝国ノベルアンソロジーさまに掲載して頂いたものです