落葉

 サウスフィガロの洞窟。辛うじて帝国の目を逃れ、サウスフィガロの街を脱出したロックは、ナルシェへの道を急いでいた。
 彼の手にした情報――帝国軍のナルシェ侵攻。それが事実であるならば、出来うる限り早く知らせなくてはならない。
 気ばかりが逸る。
 帝国軍はもうナルシェに到達しただろうか? ――まだ街は無事だろうか?
 先を急ぐ彼の前には、薄暗い洞窟の湿った岩と、モンスターが立ちはだかる。足場の悪い中での戦闘、それから起伏の激しい洞内の移動で、既に身体は疲弊していた。
「――くそっ」
 苛立つ気持ちを抑える事が出来ず、彼は低く吐き捨てた。街を灼かせるわけにはいかない。無論、そこにいるであろう罪のない人々もだ。その為には、とにかく急がなければ。
 ――そればかりを考えて、子どもの背丈ほどもある大岩をもうひとつよじ登ったとき、ふと思い出す。
 同行者の事を。
 焦りからすっかり失念していたが、彼女の負った傷は深い。道すがら何度も薬を使い、彼女自身の魔法も利用して回復を図って来たが、それでもまだ完調ではないだろう。
 彼は慌てて振り向いた。予想通り、ロックの後ろに彼女の姿はない。
 薄暗い洞窟内に目を凝らせば、彼の位置から数段分の岩を下った辺り、金の髪が揺れているのが見える。かなり高い段差に、苦心している様だ。
 そういえば、囚われた彼女を助け出したときには、歩く事がやっとなほどだった。気丈に振る舞ってはいたが、こんな状況が辛くないはずはない。
「……忘れてた」
 ロックは小さく呟くと、自分が今居る岩から飛び降りる。その勢いのままにもうひとつ分飛び越え、彼女の頭上にたどり着いた。
「おい」
 声をかければ、彼女がロックの方を見る。近くで見ると、彼女の額がじっとりと汗ばんでいるのがわかった。やわらかそうな金髪が顔に張り付いている。
 脂汗に塗れた彼女を、ロックは見つめ返した。これだけの動きを強いられて、体中の傷が痛まないはずはないだろう。気遣えなかった自分が、ひどく情けない男に思えた。
 彼は苦い表情を浮かべる。不思議そうに自分を見つめる女の前にかがみ込み、右手を差し出した。
「ほら」
「……? なんだ?」
 女は訳が分からない、と言った風に眉を寄せる。ロックは微笑んでみせた。
「手だよ。ほら」
 彼女の鼻先で、ひらひらと手を振り、促す。だが彼女はそれに応じず、代わりに小さく嘆息した。
「気遣いなら無用だ」
 そう告げると、彼女はロックのいる正面を避け、彼の脇にその手をかける。その手には血が滲み、綺麗に手入れされていたのであろう爪も無惨に割れ、欠けていた。
 ロックはしばし困惑したまま、彼女を眺める。なんとかよじ上ろうとしているが、力が入らないのだろう。整った容貌には苦悶が浮かぶ。
「……ふぅ」
 彼は胸に蟠った息を吐き出す。立ち上がって女の正面に回り込むと、有無を言わさずその手首を掴んだ。
「いいから。手、貸せ」
 それだけ告げると、そのまま力に任せて引き上げる。かなり大柄な女だったが、思っていたよりは軽かった。同じ高さまで体重が移動したのを確認すると、ロックが手の力を緩める。女は湿った岩の上にぺたりと座り込んだ。
「大丈夫か?」
 問いかけたが、彼女は動かない。ロックは彼女の顔を覗き込んだ。
「どうした?」
「…………」
 女は僅かな間ロックの顔を見る。腹立たしげに息を吐いた。
 そしてその場から立ち上がると、彼の方をを見向きもせずに次の段差に向かう。
「おい。なんだよ?」
 訳が分からず、ロックは思わず不満そうに声を上げた。目の前の段差を苦しげに越えながら、彼女は小さな声で呟く。
「そういう事は、止めてくれ」
 冷たく、険を含んだ声だった。彼女の後を追うように歩を進めながら、ロックが更に問いかける。
「なんで」
「……慣れていない」
 彼女の答えにロックは苦笑する。
「そんな感じだな」
 と、肩をすくめるロックに、女は嘆息まじりに告げた。
「守ると言ってくれた事は嬉しい。本当に感謝している。だが――」
「だが、――なんだ?」
 彼女は首を傾げるロックに視線を向け、すぐにそっぽを向いた。俯き、呟く。
「こういうのは、あまり好きじゃない」
 その言葉に、ロックは思わず吹き出した。
「何がおかしい」
 そんなロックに、彼女が心外そうな顔で詰め寄ってくる。その動作もどこかおかしくて、ロックはまた笑った。
 ――これが、"あの"将軍か。思わず心中で呟く。
 ロックは以前から、彼女の噂は聞き及んでいた。
 魔導の力を持った、年若い女将軍。数々の戦歴と、それに付随する噂話から想像していたのは、もっと恐ろしく、それこそ血も涙もない冷酷な女の姿だった。
 だが、目の前に立つこの女はどうだろう。
 気まずそうに視線を外す表情も、こちらを睨みつける瞳も、想像していたものとはどこか違う。そこにいるのは、甘える事が好きではないと言う、不器用そうなひとりの少女だ。少なくとも、ロックにはそう思える。
 考えてみれば、ティナと年も変わらない。それほどの違いがあるはずもないのだろう。
 ロックは不満そうな顔の彼女に微笑んだ。 
「そんな事より、早く行こう」
 言いながら軽々と先に進むと、また少女に手を差し伸べる。
「……構うなと言ったろう」
 彼女はその手を乱暴に振り払った。
 ぷっ。
 またロックの笑みが洩れる。
「無理するなよ、セリス」
 と、彼がそう言ったその瞬間、彼女が目を見開いた。
「ん?」
「……いや」
 驚いた表情でロックをまじまじと見つめてくる。何故かは判らなかったが、彼はとにかく手を伸ばし、彼女の腕を掴んだ。今度は抵抗されなかった。急におとなしくなった彼女に違和感を覚えながらも、再び彼女を引っ張り上げる。
 そして彼女の手を掴んだまま、再び歩き出した。
「とにかく、急ごう」
 肩越しに振り返って笑いかければ、セリスは戸惑いながら小さく頷く。つないだ手から、彼女の熱が伝わった。
 ――ナルシェまで、あと少し。


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2005.05.17.up