海唄


 細く細く、さざ波の彼方から楽の音が寄せる。
 歌声は、彼の島に近付くほどに鮮明になった。その調べは青い眼の少女にも届き、彼女は不快そうに眉を顰める。
「ちょっと、どこに行くつもり?」
 マルチェラが、じろりとセルジュを睨み据えた。棘を含んだ口調は別段珍しいものではなかったが、それにしても、いつになくひどい剣幕である。
 厳しい声音にたじろぎながら、セルジュは目的の島の名前を口にした。途端に、マルチェラの顔が顰められる。
「いやよ。あたし、行かない!」
 腰に手を当てて、ぷくりと頬を膨らませる。子どもらしい仕草だと笑い飛ばせれば良かったが、こういう状態の彼女がなにをしでかすかわかったものではないことを、セルジュは重々承知している。
 慌てて宥めにかかったが、すっかり機嫌を損ねた少女は、セルジュの言葉など全く聞き入れるつもりはないらしい。同乗していたレナとあれこれ甘言を弄してみたものの、効果はなかった。
 狭いボートの上で揉めることしばし、しびれを切らしたのはやはり忍耐力の差か、マルチェラの方が先だった。
「もういい!」
 金切り声を上げ、留める暇もあらばこそ、少女は服のまま海へと飛び込んでしまった。
「用があるなら二人で行って。あたしは行かないわよ、あんな所」
 そう言い残して、彼女はぽちゃりと水面下へと姿を消した。纏う服が、青い波間にゆらゆらと揺れているのが見える。朧な影は見る見るうちに遠ざかり、あっという間に見失ってしまいそうだ。
 まるで白魚のようだ。そんな考えが頭に浮かび、思わず見蕩れてしまう。立ちつくすセルジュに代わって、動いたのは隣のレナの方だった。
「こら、待ちなさい!」
 ぐらりとボートが揺れ、次いでどぼん、と重いものが水面に落ちる音。彼女が飛び込んだ瞬間を、セルジュは見ていない。水音だけが耳に届いて、状況を悟った。悟ると同時に、すうと血の気が引いて行く。
 慌てて周囲を見れば、もちろんボートの上にレナの姿はない。脱ぎ捨てられひっくり返った彼女のサンダルが転がっているばかりだ。海に目を向けると、白い影が消えた方向、その色を追うようにして、鮮やかな赤い色が水中を滑っていく。それがレナの髪の色だと気付いた時には、もう遅い。
 追って飛び込むべきか。咄嗟の考えを、セルジュは慌てて打ち消した。この辺りの海域は無数の島々に囲まれ、潮の流れが読み難い。無人になったボートがどこへ流されるかわかったものではないのだ。
 となれば他に方策はなく、なんとかボートの方向を変え、二人を追うことにした。が、ようよう船首の向きを変えた所で、すでに彼女たちの影は視界から消え去っている。
 ゆらりゆらりと頼りなく揺れる小舟の上、セルジュは独り取り残され、深く息を吐いた。視線を巡らせても、彼の周囲には青く澄み渡った海と空とが広がるばかり。遠く島々に目を凝らしてみても、無論、仲間の姿など見えるわけもない。
 青天の下、水面はきらきらと光を弾いている。虚しい気持ちで、それを眺めた。どうしたものかと悩み、悩んで、諦める他はないとの結論に至る。
 追いかけた所で行き先は知れない。放っておく、というよりも、レナに任せるのが賢明か。一通り思考を巡らせて、セルジュは一人、目的の島へと向かうことにした。
 海辺育ちのレナだ。彼女の泳ぎなら知っている。追いつけないことはないだろうし、二人が一緒にいるのなら後で合流出来る。今は一先ず、本来の目的を果たすことが、ただひとつセルジュにできることだ。
 結論が出たところで、彼は最後にもうひとつ、ため息を吐いた。行きたくないからとボートから飛び出すのはどうかと思うが、それを追いかけて飛び込むのもやはり、どうかしている。
 昔から無茶な所のある娘だった。世界は違っても、やはりレナはレナということか。何度こうしてやきもきさせられたことか、などと思い返しながら、セルジュはのろのろと船の向きを変えた。
 陽気な歌は海風に乗り、途切れることなく空を満たしている。無茶な幼馴染みと幼い少女に胃を痛めつつ、セルジュは彼女たちと逆の方向へと船を進めた。
 向かう先はマブーレ。亜人と人とが住まう、地上の楽園だ。


 速い、と思った。
 レナが追う少女は、水の中をするすると泳いで行く。薄桃色のドレスがクラゲのようにひらめいて、波の向こうに揺らいでいた。彼女の服の色に感謝しなければならない。濃い色合いのドレスだったら、海の色に混じって見失い、追いかけられないかもしれなかった。
 少女の出自を鑑みれば、魚のようにしなやかな泳ぎはなるほど当然のものだ。以前スラッシュに聞いた、彼と彼女に流れる血。そのことを頭の片隅で考えながら、レナは懸命に水を蹴る。
 相手が誰であれ、泳ぎならば負けていられない。生まれて十六年。レナの生活は、常に海と共にあった。子どもの頃はセルジュとよくこうやって、水中で追いかけっこをしたものだ。
 焦らずに、少しずつ距離をつめていく。ひらめく白が眼前まで迫った瞬間を見計らって、その布の端を握りしめた。暴れる少女の立てる泡が、視界を埋め尽くす。それでも握った手を離さずに、無理矢理引き上げるようにして海面に顔を出した。
「なにするの」
 不満げなマルチェラが、レナを睨みつける。その視線を軽くいなして、レナは笑った。
「無茶するんじゃないの。心配するでしょ」
 返す言葉がないのか、単に不貞腐れているだけか、マルチェラは何も言わなかった。そんな彼女の腕を離してやりながら、レナは周囲を見渡す。
 一番近い島を示して、そちらへ向かって泳ぎだした。無人島のようだが、このまま浮かんでいてもどうにもならない。へそを曲げて付いて来ないかとひそかに危惧していたが、杞憂に終わった。思いの外素直に、少女はレナの後を付いて来る。
 砂浜に上がると、やわらかな白砂の感触が靴下越しに伝わってきた。そういえば、ボートにサンダルを脱ぎ捨ててきたことを今更に思い出す。泳ぎにくいかと思ってそうしたのだが、地上に上がった今となっては失策だったかもしれないと思った。
 裸足で無理に動き回ることもあるまい。そのうちにテレシフターでセルジュが連絡を寄越すだろう。
 楽観的に考えて、レナはその場で待つことにした。服の裾を軽く搾ってから、手頃な場所に腰を下ろす。何も言わなかったが、マルチェラも黙ってそれに従った。
 ひらひらとしたマルチェラのスカートは、たっぷりと水を含んで砂浜にへばりついている。その裾を気にするように指先で弄びながら、マルチェラはまた、ぷくりと頬を膨らませた。
「なんでついて来たの」
 拗ねたような口調が可笑しくて、レナはまた笑う。マルチェラがひどく不満そうな顔をしたので慌てて笑みを引っ込めたが、それがまたおかしくて、堪えるのに苦労をした。
 共に魔物と闘っているときは気付かない。けれども、ふとした瞬間に思い知らされることがある。
 マルチェラはまだ子どもなのだと言う事実だ。レナがいつも子守りをしているアルニの子供たち、彼らとそう変わらない年齢なのだということ。
 自然と優しい気持ちになって、レナはマルチェラの頭に手を置いた。海水で湿った髪を撫で付けながら、ごめんね、と呟く。
 少女はきょとんと目を見開いた。だから、とレナは苦笑する。
「あんたの気持ち、考えてなかったわ」
「ああ、そのこと」
 ふんとマルチェラが鼻を鳴らす。
「別に。あそこに用があったんでしょ? なら仕方ないじゃない」
 うっとうしそうにレナの手を払って、彼女は唇を尖らせた。少女の形のいい眉が寄せられ、薄く開かれた碧眼が水平線を映す。その視線を追うようにして、レナも海を眺めた。その時、ふと気付く。
 風の流れがそうさせるだろうのか。さざ波の立てる音に混じって、高らかに歌う声が聞こえる。島まで随分と距離があるはずなのに、不思議なほどに通るその音は、確かにレナの耳にも届いていた。
「歌は、きらい」
 少女がぽつりと洩らす。レナはただ、頷いた。歌がというよりも、あの島の歌が、嫌いなのだろう。
 レナ自身が居合わせたわけではないが、大体の事情は聞いている。あの歌が何の歌なのか。どこから聞こえる音なのか。その時マルチェラがその場にいたことも、歌い手であるあの少年との関わりについても、セルジュから何となく聞いていた。嫌いだと言う、その裏にある感情を思えば、レナの表情も自然と曇る。
 ならばせめて、響いて来る音色をかき消そうとして、レナは自分が知っている数少ない歌のひとつを口ずさんだ。
 微かな楽の音は、波とレナの声とにかき消される。それに満足して、レナは微笑んだ。
けれども当のマルチェラは、レナの思惑など全く気付きもせずに、ずばりと切り捨てる。
「音痴」
「放っといて」
 自覚していることではあるが、改めて言われるとやはり少し腹立たしい。レナがぷいとそっぽを向くと、少女はくすくすと笑った。
「何の歌?」
「さあ。知らない」
 正直な所を答える。
 歌としては知っていても、歌詞とその意味について、レナは知らなかった。エルニドの古語だか、大陸の言葉だか、それすらもよくはわからない。使っている言葉とは違う、不可思議な語群。意味など知らぬまま、言葉を音として覚えているだけだった。
 知っていることと言えば、ひとつだけ。
『ディルムッドよ、帰路を照らしておくれ。グラーニャよ、逝く先を示しておくれ』
 祖母の言葉が脳裏に甦る。海原を照らす二つの星へ、願いの込めた歌なのだと教えられた。だからアルニの女達は、仕事の合間に、家事の供に、眠れぬ夜の心遣りに、この歌を歌う。海へ出た男の無事を願い、海から戻らぬ者の安息を祈って、歌うのだ。
 レナにとっても、その願いは非常に身近なものだった。海から戻らなかった父と、波に攫われた幼馴染みと。二人を思う時はいつだって、アルニの歌は傍らに在る。
 弟にも、村の子供たちにも下手だと言われた。それでもレナが時折口ずさむのには、そういった理由がある。  ぼんやりそんなことを考えていると、ふと、疑問が浮かんだ。
「マルチェラ」
 呼びかければ、少女の瞳がレナへ向けられる。青、深海の色の眼だ。その色を見るほどに思う。
「海が怖いと思ったことはある?」
 おずおずと問いかけてみれば、彼女はあっさりとした口調で答えた。
「ない」
 即答だった。
 そして、それこそが彼女に流れる血脈の証しなのだと、レナにはそう思える。
「レナは?」
 問い返されて、レナは苦笑する。
「あるわ。いつでも、怖いと思ってるもの」
 その言葉は真実だった。海辺の村に生まれ、海とともに生きて来たからこそ、レナには海に対する畏れがある。
 いずれ還っていく場所なのだと言うことを、物心つく頃には漠然と理解していた。親しい人を失くした場所であるから、尚更だ。水平線を見る度に、遠く彼方から何かに呼ばれているような感覚に襲われる。それを紛らわす為の歌でもあった。
 まして、今レナの目の前に広がる海は、彼女の知らない海だ。異世界の水面は、見知っているはずの景色でも何処か馴染めなくて、一層に恐ろしい。
 けれどもマルチェラにとってはそうではないのかもしれない。海は帰る場所であると同時に、己が来た場所でもあるのだ。たとえ、世界が違っても。
 ここに確かな隔たりがある。それを、マルチェラも感じたのだろう。歳に似合わない寂しげな表情で、少女は笑った。
「歌は、嫌いだけど」
 少女は照れくさそうに呟いて、俯く。
「レナの歌は、嫌いじゃないよ」
「うん」
 ありがとう、と、レナは彼女の頭を撫でた。金の髪、海原を照らす太陽の色だ。
 アルニの調べを口ずさみながら、マブーレの旋律を思う。美しく優しい島から流れて来る、高らかな笛と弦の響き。空を渡る太鼓のリズム。そして声。
 優しく、愛に満ちた唄だと思った。それを嫌いだと言うマルチェラが哀れで、また、悲しく思う。
「いつか、」
 ふとマルチェラが何かを言い差した。はっとレナが振り返るのと同時、マブーレの歌声に混じるようにして、どこからかセルジュの声が聞こえてきた。用が済んだのだろうか、レナとマルチェラを呼んでいる。
「セル兄ちゃんだ」
「うん」
 レナは立ち上がり、マルチェラに手を差し伸べた。何を言いかけたのか聞こうと思って、やめる。答えを聞き出すのは、まだ早いように思えた。少なくとも、あの歌に顔を歪めずに済むようになるまで、知らなくともいい。
 耳を澄ませば、セルジュの声が次第に近付いて来るのがわかる。幼い日、共に歌った幼馴染みとは違う。レナの知らない、もう一人の彼。
 ……セルジュは、あの歌を覚えているだろうか。そして、この世界の、レナは。
 次に会えたら聞いてみようと思う。今は、一先ず。
「行こうか」
 こくりと頷くマルチェラと、歩き出す。
 馴染んだ呼び声に混じり、細く細く、楽の音は続いていた。さざ波の音に混じるようにして、遠く。




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2010.4.14.up.(written:2009夏頃)
クロス10周年アンソロジーさまに掲載して頂いたもの