雨音

 あの人が怖かった。
 あのひとの、僕と同じ色の、なのにあまりにも違い過ぎる、あの目が。
 いつも、責められているようで。

 今年も、いつもと同じように梅雨が来た。
 慶はふと、窓の外を見やる。
 昨夜遅くに降り始めた小雨。
 ガラス越しに、さわさわと雨の音が聴こえた。
 ――雨の音は好きだ。
 慶の頬が緩み、微笑みが浮かぶ。
 雨の音は、好きだ。こと、今慶のいる場所で聞くそれは、特に心地よく彼の耳に響く。
 この、教会の中では。
 慶は小窓に顔を寄せた。年期を経て多少曇ってはいるものの、この場所の主によって隅まで磨かれているガラス。外界と慶とを隔てるそれに、彼はそっと耳をつけた。
 ひやりとした感覚。より近く、鮮明に聴こえる音色。慶は瞼を閉じる。
 静かな時間だった。
 周囲には誰もいない。彼が知る者も、彼が愛する女性も、誰もいなかった。ひとり、慶だけがこの場所にいる。
 そして、絶え間なく続く雨音。長く聞き入るうちに、雫ひとつぶひとつぶの音さえも聞き分けられるようになるのではないか。そんな気さえするほど、彼は静寂に包まれている。
 人気のない教会の中。それは恐ろしく孤独なはずなのに。
 不思議と、不安はなかった。


 どれほどの時間が経ったか。
 不意に、重く軋んだ音が響いた。何が起こったのか、わざわざ見なくても判る。聞き慣れたそれは、この教会の古い扉が開かれる音だ。
 穏やかな空間を裂く不快な音に、慶はほんの僅か顔を顰めながら、考えを巡らせた。
 この時間――もうそろそろ、村の者たちは夕飯の支度に取りかかる頃だろう――、わざわざ教会を訪ねてくるものなど、そうはいまい。
 と、なれば。
 慶は己の期待に、思わず笑みを浮かべた。
 と、なれば、恐らくそこにいるのは訪ねてくる者ではなく、帰って来た者なんだろう。
「八尾さん?」
 女性の笑顔を思い浮かべながら、慶は扉の方を振り向いた。
 ――おかえりなさい。そう言おうとして、彼はその表情を凍り付かせる。
 そこにいたのが、彼の愛する求道女ではなかったからだ。
「あ……」
 慶は思わず、落胆の声を上げた。それを知って知らずか。教会の入り口に立つ少年は無表情に慶を見つめている。
「こんにちは、牧野さん」
 彼女の代わりに訪れた彼、慶と同じ顔のその少年は、そう言って軽く頭を下げた。

 訪れたその少年は、ただ静かにその場に立っていた。おそらくは、慶が言葉を発するのを待っているのだろう。それは判っていたが、慶には口を開く事が出来なかった。
 しばしの沈黙。
 ややあってから、彼が溜め息を吐くのが判った。慶の身体がぴくりと震える。彼の口調は険を含んでいた。
「おひとりですか?」
 丁寧な言葉づかい。だが、彼が苛立っているのを痛い程に感じる。
 慶は顔を上げ、それから一度頷いてみせた。
「はい」
 それを見て、少年は再び嘆息する。そして彼はそのまま背後に向き直り、開け放されたままの扉の外、未だ雨の降り続ける空を見上げた。
 ざわざわと慶の心が波立った。出来ればその場から逃げ出したいくらいだったが、そうも行かない事も知っている。
 仕方なく、慶は一度深呼吸してから、彼に向き直った。 
「あの、あなたは、どうしてここに?」
 その問いかけに、少年が振り返る。彼は僅かな間慶をじっと見すえ、答えた。 
「八尾さんにと、言付かっているものが」
「八尾さんに?」
 聞き返せば、彼はゆっくりと頷いてみせる。慶は思わず眉を寄せた。気まずい思いでようよう口を開く。
「そう……ですか。でも、あの、八尾さんは……まだ、帰っていないんです。」
「そのようですね」
 彼が投げやりに答える。さらにもう一度、息を吐いた。
「すこし、待たせていただけますか?」
 少年の言葉に慶は僅かに戸惑いながら、それでもそれを了承した。
 それを見た少年の手によって、教会の扉が閉められる。再び重苦しい音が、あたりに響いた。 


 奇妙な程に離れた位置に腰掛けて、ひとことも話さないままに、時だけが過ぎる。
 ぱらぱらぱら……と、相変わらずの雨粒は、容赦なく教会の古びた屋根を叩く。
 それは変わらないのに、あれほど穏やかだった慶の心中は、先ほどとは全く違っていた。
 原因はわかっている。慶は、少年を見つめた。
 同じ顔、同じ体格、同じ目――だが、同じはずのその眼差しは、慶のものとは違い、鋭い。ふと、見るものを射殺すような厳しい視線がこちらに向いて、慶は思わず俯いた。
 ――彼は、その名を宮田司郎という。
 教会で求道師として育つ慶とは、全く違う世界に住む少年だ。何の関係もないと皆は言う。そう言う事になっている。
 だが、どうしてそれを信じる事が出来ようか。慶は目を閉じて、彼の姿を思い浮かべた。
 同じ顔。同じ声。同じ外見。それは彼を見れば見る程、思い知らされる。
 ――どうしてそれを信じる事が出来よう。これほどまでに似ているのに。
「あの」
 慶はほとんど無意識のうちに、声を上げていた。その後で、そんな自分に驚く。 
「なんです?」
 少年、宮田が応えた。慶が彼を見るとき、彼もまた慶の方を見ている。
 同じ目――同じはずなのに、その眼差しは本当に、恐ろしい程、鋭い……。
 見るものを射殺すような厳しい視線に、息苦しさすら感じる。
 慶はまた、俯いた。
「いえ……なんでも、ないです」
 何を言おうとしたものか、よくわからなかった。なにげなく誤魔化したが、息苦しさは取れなかった。
 宮田はまだ、こちらを見ている。それを感じて、思わず慶は息を詰めた。
 そういえば、と、思い出す。
 もうずっと小さい頃から、慶は宮田の目が嫌いだった。
 会う度に、彼が己を見る、その目。
 同じように生まれてきたはずなのに、どうしてこんなにも違うのか。
 まるでなにかを責められているようなその目が、辛かった。
 もう、雨の音も聴こえない。あの、慶にやすらぎを運ぶ優しい音は、もう慶には届かない。
 宮田の視線に射られて、ただ恐怖ばかりが募る。
 慶は固く目を閉じた。早く、一刻も早く、時が過ぎる事を祈る。
(八尾さん――)
 心の中で、敬愛する女性に助けを求めながら。

 突然、そんな慶の耳に、今日何度か耳にした、扉の開く音が聴こえた。
 そして、それとほぼ同時に、女の声が響く。
「……あら? あなた、来ていたの」
 軽やかな、聞き慣れた声音。慶は弾かれたように顔を上げた。
「八尾さん!」
 思わず声を上げて、立ち上がった。そんな慶に、求道女は首を傾げながらも、微笑む。
「ただいま戻りました」
 その笑顔に、慶の感じていた恐ろしさが融解する。
「おかえりなさい、八尾さん」
 その時、ようやく雨の音が慶の耳に届いた。宮田がくる前の、穏やかな気持ちが戻ってくる。
「こんにちは。お邪魔しています」
 と、宮田が口を開いた。八尾は宮田の方へと向き直る。慶もつられて彼を見た。
 無表情のまま、彼は軽く頭を下げていた。八尾はその宮田にも微笑みを向ける。
「いらっしゃい。なにか御用?」
「これを――父より言付かって参りましたので。」
 言いながら宮田は八尾に近づき、何やら白い封書を取り出した。
「そう。ご苦労様」
 差し出された封書を八尾は受け取り、一瞥する。それを見届けると、宮田は一歩その場を下がった。
「では、私はこれで失礼します」
 これに、八尾が驚いて目を見開く。
「あら。もう少しゆっくりしていったら?」
「いえ」
 引き止めるようにのばされた八尾の手を、宮田はそれとなく押しとどめた。
「でも、雨もまだ降っているし……」
「いえ。大丈夫ですから」
 宮田は八尾と慶を交互に見やる。その視線を受けて、先ほどの不安が再び慶の足下から這い上ってきた。ぞわりとした感覚に、彼は慌てて八尾の方を見る。
 八尾は、笑っていた。
「そう。じゃあ、気をつけてね」
 にこやかに頭を下げた八尾に習い、慶も慌てて軽く会釈をする。目は合わせなかった。
「失礼します。お邪魔しました」
 宮田は丁寧に頭を下げた。壁に立てかけてあった傘を一振りしてから開くと、そのまま雨の中へと分け入って行く。
 慶は、その後ろ姿をただ見送った。雨にまぎれて翳む姿。
 そんな慶を気にかける事もなく、八尾が扉を閉めた。慶は宮田を完全に見失う。すると、何故だか胸が騒いだ。
 最後に彼と目を合わせなかった事が、妙に気にかかる。
 このままにしてはいけない。何故だかそう思って、無意識のうちに閉ざされた扉に手をかけると――
 その手を、やんわりと八尾に止められた。
 慶は驚いて八尾を見た。彼女はまた、笑っている。
「どこにいくの?」
 その問いに、慶には応える事が出来なかった。
 ただ、八尾の顔を見ていると、己の感じている胸騒ぎが静まっていくのが判る。
 ――あの人が怖かった。
 あのひとの、僕と同じ色の、なのにあまりにも違い過ぎる、あの目が。
 いつも、責められているようで。
 でも、この人は、怖くない。この人の笑顔は。
 この人がいれば、何も――
「八尾さん……」
 慶の声に、彼女は頷いて応える。
「さあ、お食事にしましょう。遅くなったから、お腹すいているでしょう?」
 言いながら、八尾は歩き始めた。慶も、その後に続く。
 ただ、それでも一度だけ、慶は振り返った。
 教会の厚い、重い扉。その向うに、傘をさした宮田が――血を分けた弟の姿が見えるかもしれない。
 そんな期待とともに振り返った慶の目には、ただ、古びた教会の、厚く、重い扉だけが映っていた。


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2005.4.28.up