雨音

 雨が、傘を叩く。
 耳元で響く、ぱらぱらと水滴が弾かれる音。司郎は何気なく視線を上に向けた。
 古びた傘の錆びかけた骨。よくみれば、ほんの少しだけ穴があいているのが判る。
 彼の行く道はぬかるみ、泥の跳ね上がった靴には水がしみ込み始めていた。指先からじわじわと冷えていく感覚に、背が粟立つ。
 雨脚は弱まるばかりか、さして長くもない道のりを行く間にも、ますます強くなっていった。
 相変わらず音は止まない。司郎はほんの少しだけ顔をしかめる。
 ――雨の音は、あまり好きではなかった。


 ようやく宮田医院の軒先にたどり着いて、彼は傘を畳む。軽く振れば、そこから大量の雫が地に飛んだ。
 その傘を、粗暴な手つきで傘立てに突っ込む。傘と同じように錆の浮いたそれは、大きな音を立て、揺れた。
 何故だか、ひどく苛立っている。司郎は息を吐いた。
 こんな気分になる事の理由は判っている。
 司郎は、重く暗い所へ沈んでいこうとする心を、無理矢理に引き上げた。そして、その顔からありとあらゆる色を消していく。
 感情の動きを見せない冷たい表情を作り、彼はようやくその手を扉にかけた。ガラスで出来た厚い扉。そこには診察中、と書かれた札が掛かっていた。
 彼はそれをしばし見つめ、何かを振り払うかのように一気に押し開ける。 
 扉一枚隔てた待合室の中は、明るかった。季節の割に冷えた外気とは違い、適度に暖められている。
 中には数人の人が居て、司郎を見ると軽い会釈をした。人懐っこく笑う老女、無表情に頭を下げる初老の男、すやすやと眠る小さな子どもを連れた母親も居る。
 司郎は彼らを一瞥すると、同じように礼をした。丁寧な手つきで扉を閉めると、彼らの正面を横切り、医院の奥へと向かう。
 いつも、少しだけ診察室の扉は開けられていた。司郎が隙間から中を伺うと、中には患者と看護婦がひとり、それから医院の長である彼の父親がいる。
 声をかけるべきか逡巡していると、司郎に気付いた父親と目が合った。彼はわずかに目を細めると、軽く右手を振る。
 司郎は応えて、頷いた。そしてそのままその場を離れる。
 父親の仕草の意味は知っていた。今更、特に何を思うでもない。
 司郎はその場を通り過ぎ、母屋へと足を向けた。

 ――彼の家族が暮らす家には、当然彼の私室も存在している。
 同世代の少年達に比べれば、格段に広く充実した一室だった。
 隅まで丁寧に掃除された床。大量の本が整然と並ぶ書棚。壁に掛かる制服。その下に置かれた学生鞄。清潔なカーテン。曇りのない窓。大きな勉強机には、教科書が大きさを揃えて立ててある。
 そこは余計なものが一切省かれた、生活感のない空間だった。通って来た一階から比べると、ひどく冷える。それは空調のせいばかりではない。人の気配がないからだ。
 司郎は机から椅子を引き出し、腰掛ける。
 慣れ親しんだはずの部屋なのに、居心地の悪さを感じた。
 ――いや。
 司郎は頭を振る。居心地の悪さと言うのなら、なにもこの部屋に限った事ではない。彼は窓の外を見た。雨粒が窓を伝い、濡らしている。
 その向うの光景も、見慣れているはずなのに、不思議な違和感があった。
 そこに居ていいのかわからない。そこに居る事がおかしな気がする。あるいはもっと直接的に、居てはいけないような感覚すら覚えた。
 ――だが、それはなにもこの部屋に限った事でも、今この瞬間に始まった事でもない。司郎は静かに目を閉じた。
 幼い頃から、ずっとそうだった。
 家族と名のついた人々に愛着はわかなかったし、どれだけ長く生活しても、この場所を『家』と思う事すら出来ないまま、今に至っている。己の出自を知る前も、知った後も、そしてこれからもずっと変わらないのだろう。
 それは司郎が先ほど、この医院までの道のりを辿る時にも思っていた事だった。
 いつだって、『家』に向かう足はひどく重い。
 司郎には、どこにも休らう場所などなかった。身体が戻る場所はあっても、そこは帰る場所とは違う。
 彼に家路はない。往く道はいつだって己の心の中、深く暗い場所に続いた。
 司郎はふと、先刻まで相対していた少年の事を思う。
 教会の中で、穏やかに微笑んでいた、血を分ける兄。同じ顔をした彼は、司郎から気まずそうに目を背けた。
 ――牧野には、帰る場所はあるのだろうか?
 浮かんだその考えに、司郎が思わず俯いた。わかっている。
 答えは、イエスだ。

『――八尾さん?』

 一瞬だけ司郎に向けられた、あの笑み。安心しきった無邪気な顔を目にした時は、腑が煮え返った。
 あの顔を見る限り、少なくとも牧野にはあるんだろう。帰る場所が。
 そしてその場所とは、互いに唯一の血縁であるはずの司郎の元ではない。
 彼は唇を噛んだ。己を見ようとしない、見てもすぐに目を背ける牧野の事を考えると、心がひどく波立つ。
 この感情を言葉で表すなら、「気に喰わない」だった。
 腹が立つほどではない。だからといって無視出来る訳もない。
 ただ気に喰わなかった。
 教会の重い扉の中、笑う求道女の腕に抱かれ、自分を顧みる暇などないのだろう。そう考えれば考えるほど、司郎の闇は深くなる。
 どうしてこうも違うのか。
 司郎は顔を上げ、己の部屋を見渡す。必要なものは全て揃えられた空間。必要のないものでも、司郎が望みさえすればおそらくは与えられる。
 だがこの場所には、彼が一番望むものだけが、ない。
 がらんとした室内に、司郎は独り存在していた。その姿は、寄る辺を持たない彼の心をそのまま映しているようで、ひどく陰鬱な気分になる。
 そして、その静かな世界には、雨音だけが響いていた。絶え間なく屋根を叩き、部屋に伝ってくる。
 その、音。
 司郎は、どうしても好きになれなかった。
 気を抜けばいつでも深く沈んでいく心。この音は、そんな彼を助長する。
 身体が、ひどく冷えた。
 彼は立ち上がり、窓を見る。雨の降りしきる木立の向う、彼のいる教会は見えるだろうか。
 ――彼の望む景色はなかった。だが、目には見えずとも、それをはっきり思い浮かべる事が出来る。
 雨に打たれてひっそりと佇む教会。牧野の帰る場所。そこにいる牧野の顔も、彼を抱く女の顔も、瞼の裏に鮮明に映った。
 穏やかな表情。牧野は、今、何を考えているのだろう。
 それが何かなど見当もつかなかったが、少なくとも司郎の事ではない。それだけは、容易に想像する事が出来た。
 ふつふつとわき起こる苛立ちに任せて、彼は乱暴にカーテンを閉める。白い布に覆われ、閉ざされる視界。だが、それでもあの教会は見えた。それから、牧野の姿も。
 司郎は深く嘆息する。消そうとしているのに、顔に感情の色が浮かんでゆくのが判った。醜く歪められていく、己の顔。

 ――雨の音は、未だ止まない。


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2005.05.17.up