伝心

 司郎は下駄箱に上履きを突っ込むと、つま先を何度か地面に打ち付け、靴のかかとを慣した。左手に持っていた鞄を持ち直し、足早に校舎の外に向かう。
 ――羽生蛇村の折部分校、決して数の多くない生徒たちが遊ぶ放課後の校庭。それぞれに集まって遊ぶ生徒たちに構う事なく、彼はそこを横断して校門を目指す。
 司郎は何気なく校庭の片隅に目をやった。そこで数人の少年達がひとつの輪を作っている。ぱっと見た所、司郎の同級と、一年上の生徒の姿をそれぞれ確認する事が出来た。同じクラスの少年もいる。
「じゃ、ぐーぱーな」
 少年達の輪の中、一番背の高い生徒のひときわ大きな声が、離れた場所を歩く司郎の耳にも届いた。校庭の端で蠢く人間。薄曇りの空の下、同じように薄く落とされた大小様々の影。ふとそこから目を離して立ち止まると、彼は空を見る。
 そのとき丁度、太陽を隠していた雲が流れた。眩しさに彼は思わず片手を上げる。夏は過ぎ、季節は秋に近づいていた。日を追うごとに、空が暮れるのが早くなる。放課から間もない今、すでに日はやや傾きかけ、彼の影は校庭の砂の上に長く伸びていた。
 司郎は目を細めてその光を見つめる。耳に入って来るのは、甲高い子どもの笑い声と、叫び声。不意に手の平に違和感を感じて、司郎は手をかざしたまま、その拳を軽く握った。もう一度開き、握る。何度かその動作を繰り返した。
 そんなことをしている間に、また陽は雲に覆われる。司郎は腕を下ろし、今度はその手の平に視線を映してじっくりと見遣った。特に異常は見られなかったが、やたらと汗ばんでいるような、不快な感触がある。
 と、その時、先ほど見ていた集団の方向から、聞き覚えのある声があがった。
「――あ、ちょい待ち!」
 楽しげに笑い合っていた声が、一瞬途切れる。その合間を狙ったように、同じ声がもう一度、はっきりと司郎の耳に届いた。
「司ー郎くーん!」
 呼ばれて、司郎は振り返る。少年たちが輪の端、小汚い泥まみれの服を来た色の黒い少年が、司郎に向かって大きく手を振っていた。――声に聞き覚えがあるはずだ。司郎は一人得心する。そこにいたのは彼と同じクラスの生徒だった。
「なー しろー君も、まざる? どろけーい!」
 彼は全身をあますところなく使って司郎を招き寄せながら、大きな声をあげる。何がそんなに楽しいものか、乳歯の抜けた間抜けな口元を隠す事もせず、満面の笑みを浮かべていた。
 対して司郎は、年に似合わぬ冷めた表情で溜め息を吐く。
「……べつに、いい」
 ぽつりと短く答えた司郎の声は、やや離れた位置にいる少年には届かなかったらしい。彼は先ほどよりも更に大きな声で聞き返して来た。
「えー? なーにー!?」
 うるさいな。心中で司郎はそう呟く。苛立って無意識のうちに鞄の紐を握りしめると、掌が妙にべたついて感じられた。
「別にいい!」
 彼は投げやりに叫んだ。その時の気持ちが顔にも現れていたのかもしれない、司郎の返答に少年は顔を歪めた。眉を顰めて大きく息を吸うと、再度口を開く。
「なんでー? 一緒にやろーよー」
 間延びした少年の喋り方に、司郎は思わず顔を歪める。――あたまの悪そうなこえだ。子どもとして当然であるはずの子どもっぽさが、なんだか無性に癇に障った。
 司郎はそれ以上は応えずに、無言で少年たちに背を向けて歩き出す。
「なーんだよう。せっかくさそったのにー」
 背中越しに聞こえて来るのは、不満そうな少年の声。続いて、他の少年たちが陰口――いや、隠れていないから陰口ではない。あからさまな文句、あるいは悪口を次々に垂れ流しているのが司郎の耳にも届く。
「べつにいいじゃん、あいつなんかさそわなくてもさ」
「宮田、いっつもああだもんなー。もう次からよんでやんねえ」
「つーか、あいつ生意気」
 真っ直ぐに前を見る司郎には、後方の彼らの表情など伺う事は出来なかったが、予想することは出来た。……多分、皆口を尖らせて、あるいは顔をめいっぱい顰め、不満を思いのままに表しているのだろう。
「えー、でもー」
 あの戸惑ったような声は、先ほど司郎に声を掛けて来た少年のものだ。反論しようとした彼の声に、諭すような周囲の少年達の言葉が重なる。やがて彼らの話し声はほんの少しだけ険悪な雰囲気へと代わり、しかし間もなく明るい笑い声へと変化していった。
 ――気に留める必要もない。司郎はそれらになんとなく耳を傾けながら、歩調を緩める事もなく彼らから離れて行く。枯れ葉を踏みながら、ふと握りしめた鞄が気になって持ち直した。なんだか肩と腕がひどく重たい。まだ手はべたついている。
 なにかおかしなものでも触っただろうか。手は洗ったはずなのに。そんな事を考えながら、もう一度、鞄の位置を直す。
 その時だった。突然、掌に温かく柔らかい感触が触れる。驚いて振り向くと、そこにはこの上もなく見慣れた顔が――正確には、見慣れたものによく似た顔が、ひとつ。
(牧野)
 心中で、司郎がその少年の名を呼んだ。司郎と瓜二つの少年、牧野慶は、しかし司郎のものとはかけ離れた穏やかな表情を浮かべてそこに立っている。
「この後、なにかあるの?」
 牧野の唐突な問いかけに、司郎は一瞬答えに詰まった。
「用事? どこか行くの?」
 そう訊きながら首を傾げる牧野に、司郎は言葉を発さず、ただ首を横に振った。それを見た牧野の顔が綻ぶ。
「そうなの? じゃあ、行こうよ」
 彼はそう言って、司郎の手を軽く引いた。司郎は動かず、ゆっくりと視線を落として己の、そしてそこに重ねられた牧野の手を見る。誰か大人の手で丁寧に切りそろえられたのが一目で分かる、牧野の爪。そして、自分の指。繋がれた二つの手は、どちらがどちらの物なのかわからないほどに似通っていた。
 気味の悪さを感じて、司郎は牧野を振りほどこうとした。しかし、何故だか力が入らない。牧野に握られた手は、まるで自分の物ではなくなったかのように重く、冷たかった。対照的に、触れる牧野の指は生暖かく、それがまた気味が悪い。
 だが、牧野は司郎がそんな事を感じているとは思ってもいないのだろう。無邪気に司郎の手を引き、再度司郎を促した。
「ねえ。一緒にいこう」
「……」
 今度もまた、司郎は無言のまま答えなかった。それを肯定と取ったか、牧野は笑みを浮かべた。何を言うでもなく、彼はただ繋いだ手に力を込めて、司郎を引きずるように走り出す。拒絶したかったが、出来なかった。手を振り払おうと思えば出来るはずなのに、不思議とそんな事は不可能なような気がする。
「僕たちも混ぜてよ」
 そして、気付けば司郎は牧野と共に先ほどの少年たちの輪の中にいた。少しばかり嫌な顔をされた気がしたが、牧野は気にしていないらしい。あるいは、気付いていないのかもしれなかった。
「んじゃ、今度こそ」
 先刻司郎に声をかけた少年が音頭をとって、組み分けのじゃんけんが始まる。今更輪を外れるのも面倒で、司郎も流されるままに加わった。


 そして日が暮れ始める頃には、司郎もすっかり夢中になって走り回っていた。最初こそ司郎を煙たそうにしていた生徒も、遊びに熱が入り始めてどうでもよくなったのか、次第にわだかまりも溶けていく。
 辺りが暗くなり始める頃、最後にまた明日も続けて遊ぼう、と約束をして、司郎たちはそれぞれの家路についた。
「また明日ね」
 途中まで並んで帰った牧野が、別れ際、司郎にそう笑いかけた。
 司郎は口を開きかけ、また閉じる。出かけた言葉が詰まって、霧散し、そのまま何も言う事が出来なかった。だが、やはり牧野は特に気にしていないらしい。黙ったままの宮田に軽く手を振って、彼は踵を返して歩き出す。その軽い足取りを眺めて、司郎は手を挙げた。
 そうしてふと、気付く。牧野に握られてから、あの粘った不快な感触が消えていた。ずっしりと重かった上体も、動き回ったせいか、妙に軽くなった。彼の手は泥で汚れていたが、それでも先ほど感じていた気持ち悪さは、まるで嘘のように消えている。
 ……また、明日。
 口の中で小さく呟きながら、司郎は挙げたままだった手を軽く、振った。ほんの僅かな時間、牧野の後ろ姿に向けて振り、腕を降ろした所で――
 牧野が振り返った。驚いて、司郎は目を見開く。牧野がまた笑った。そしてもう一度、彼が大きく手を振ってくる。
 べと。
 突如、自然におろされた司郎の掌に、あの奇妙な感覚が戻った。
 どうして。考えている間に、牧野が再び司郎に背を向け、歩き出す。今度はもう振り返らなかった。手を振り返す間も与えずに、早々に去っていく牧野を見て、司郎が拳を握る。固く閉じられた指の間から、何か粘り気のある液体がこぼれ落ちていくような感覚を憶え、しかし視線をやってもそんな液体などありはしない。
 司郎はじっとりと湿る手を開く。そして再び腕を上げて、手を振った。牧野が角を曲がり、その姿は見えなくなる。同時に、辺りが急激に暗くなった気がした。日はもう落ち、西の空に僅かな茜色が残るだけだ。当然と言えば当然の事であり、早く帰らなければ、この辺りは本当に闇に包まれてしまうだろう。だが、それがわかっていながら、司郎はなおも手を振った。
 すると一瞬の間だけ、不快感が消えた。しかし手を下ろした時にはすでに、あの気持ち悪さは戻ってきている。
 べと。
 司郎は溜め息をついて、頭上を振仰いだ。ほとんど暮れてしまった空。放課後すぐに帰るつもりだったのに、随分遅くなってしまった。もしかしたら父になにか言われるかもしれない。
 早く、帰ろう。司郎は息を吐きながら、重い足取りで歩き出す。数歩進んで、ふと振り返って牧野が消えていった角を見た。牧野の手のやわらかさと生温さを思い出す。さらりとした感触。自分のものとは違う体温。気味の悪さと同時に感じていたなにか。
 なにかとは、何なのか――それを考え始めるよりも先に、司郎は歩き出した。べたつく掌を、なんども握っては開いて、誤魔化しながら。


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2005.11.12.up