白息

 雪の降りしきる暗闇の中で、ただ、待つ――
 待ち人は、なかなか現れない。明け方降り始めた雪は、昼過ぎを過ぎた今も止む事はなく、少しずつ地面に白さを重ねて行った。
 もう、どれだけこうして待っていただろうか。ふと一瞬が永遠の時のように感じられて、美耶子の心中に不安がよぎる。傍らのケルブをぎゅっと抱きしめた。
 応えるように、ケルブが鼻先を擦り付けてくる。温かい。その事に、美耶子はまず安堵した。そして、腕を通して伝わって来る鼓動に、更に深い安心を覚える。
(大丈夫。きっともうすぐ、来る)
「早く来るといいな。ね、ケルブ」
 自分自身に言い聞かせるような気持ちで、そう口にした。ケルブがきゅうんと細い鳴き声を上げる。その声に誘われたかのように、一陣の風が美耶子とケルブの合間を抜けた。ひらひらと降る雪が美耶子の頬に触れ、冷たさに身を竦めた瞬間に、溶ける。
 彼女は体を震わせると、羽織った上着の襟を直した。
「寒いね」
 ひとり苦笑しながら、どんよりと曇った灰色の空を見上げる。――否、正確にはただ顔を上げただけだった。彼女の瞳には虚ろに空が映っていたが、彼女自身がその色を見る事はない。己自身の眼では、永久に見る事の出来ないその色。
 美耶子は息を吐いた。その吐息が白く染まり、冷えた空気の中に溶けて消えて行く。目の前でそんな光景が広がっていた事を、彼女は知る由もない。
 ぽっかり浮かんだ静寂の闇。果てがないようにすら感じられるそこが、美耶子の世界だ。そのせいか、今自分が何処に居るのか、何をしているのか、今がいつなのかわからなくなる時がある。時折響く、枝から雪が落ちる重い音だけが、そんな美耶子の意識を現実に繋いだ。
 空を仰ぐ美耶子の瞼に、雪が降り積もる。やはり冷たい。そう思って瞬きをした瞬間に、傍らのケルブが立ち上がった。そのすぐ後で、明るい声が聞こえる。
「みやちゃん!」
 雪を踏む重たい足音が美耶子の耳に届いた。先ほどの声と、どんどん近づいて来る音は、紛れもなく美耶子の待ち人のものである。美耶子が破顔した。
「待ってたよ」
 来てくれると思ってた。そう心中で続ける。少女の軽やかな笑い声が美耶子の耳に届いた。
 彼女はつい先日出会った少女だった。名前は四方田春海という。羽生蛇村の織部分校に通っていると言っていたが、それよりも詳しい話はまだあまり聞いていない。その代わり、もっと別の話ならば聞いた。彼女が感じている不安の事、見る夢の事。
 それを聞いて、美耶子は不思議な安堵感を憶えた。どこか自分と似通ったところがあると感じたからだろうか。
 突然、美耶子の手に春海の小さな手が重ねられた。
「みやちゃん、手冷たい!」
 春海がおかしそうに叫ぶ。美耶子も笑った。
「春海ちゃんだって、冷たい!」
 おどけて言いながら、春海の手を握り返す。自分と同じように熱のない掌。美耶子は自分の手ごと口元に寄せ、息を吐きかける。美耶子には見えない白い温もりが、ふたりの手を包む。
「あったかーい」
 春海の無邪気な声が心地よい。美耶子はもう一度、大きく息を吸ってから、手を温めた。
「なんでこんなに冷たくなってるの」
 人のことを言えた義理ではなかったが、美耶子は半ば叱責するような心地で、しかし口調は柔らかいまま問いかける。
「ああ、それはねぇ」
 と、春海は手を離し、美耶子から離れた。少しの間を置いて、すぐに戻ってくる。
「これ作ってたんだ」
「?」
 春海は、首を傾げる美耶子の手を取り、引っぱって目的のものに手を触れさせた。美耶子の指先に、冷たい塊が触れる。
「冷たっ」
 思わず叫んで、手を引いた。春海がくすくすと笑う。
「なに?」
「なんだと思う?」
 春海は笑うだけで、答えようとはしない。仕方なく美耶子は再び手を伸ばし、掌を使ってその塊の形を探った。
 どうやら、半球上の雪の塊のようだ。――いや、半球というよりも、少し細長い。更に探っていくと、美耶子の指にちくりと何かが当った。注意深く触ってみれば、それはなにかの葉だと判別出来る。その下方には、なにか小さな球状のものが埋め込まれていた。
「…わかった。兎だ」
「あたり」
 春海がぱちぱちと手を叩いた。美耶子は苦笑する。
「でも、どうして」
 何故そんなにまで手を冷やして、こんなものを作ったのか。雪の中、寒さを堪えて、なんのために? 
 ――その疑問に、春海はよどみなく答えた。
「みやちゃんに、見せたかったの」
 春海の言葉に、美耶子は息を飲む。嬉しさに胸が詰まり、堪えきれずに俯いた。ケルブが美耶子の足に体をすり寄せてくる。その体を撫でてやりながら、美耶子は固く瞳を閉じた。
 自分の為に手を冷やして作ってくれた事も嬉しかったし、待ち合わせをしなくとも通じ合える心も嬉しい。今まで、友人などひとりもいなかった。本当の意味で美耶子の為を思ってくれる人間もいない。でも、この少女は――
「見える? みやちゃん」
 問いかける可愛らしい声に、美耶子は顔を上げる。見えなくとも、春海が浮かべている笑顔を想像出来た。
「…見えるよ」
 頷きながら美耶子は呟く。見える。例え光がなくとも、こんなにもはっきりと見えるものがある事に驚き、またそれを嬉しく思う。
「ありがとう、春海ちゃん」
 微笑んだ美耶子の手を、春海が両手で包み込む。引き寄せて吐きかけられた春海の息は、白い。それが美耶子にも見えた。


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2005.12.05.up
幻視で見えるものだけがぜんぶじゃないよ と。