オ便リ

 彼女が帰宅したのは、陽も落ちきらない夕暮れ時だった。
 自室の鍵を取り出す彼女のもとに、どこからか強烈なカレーの匂いが漂って来た。思わず、不快そうに眉間に皺を寄せる。
「……やってらんない」
 一人ごちながら、彼女――美浜は、取り出した鍵を乱暴に刺した。

 扉を開けても、無論中には人などいない。静まり返った、暗い室内。
 美浜は嘆息しながら明かりをつける。部屋の様子が、落ち着いたオレンジの光に浮かび上がった。
 全体的に整頓された感はあるが、所々に脱ぎっぱなしの衣服や投げ出されたアクセサリーが散乱している。
 ミニテーブルの上には、置きさりにされたカップラーメンのゴミや、コンビニの弁当のカス。美浜はそれを見て嘆息する。
 捨てなきゃ。一瞬そうは思ったものの、今は何もかもが億劫だった。
 バックを適当に放り投げ、上着も脱がずにリビングのソファに倒れ込んだ。やわらかいスプリングに四肢を抱きとめられて、ようやく安堵の息を吐く。
「つ……っかれたぁ」
 半ば呻くように呟き、天井を仰いだ。そのままもぞもぞと動いて楽な姿勢をとると、パンツのポケットの辺りにごわごわした違和感を感じる。
 面倒くさそうに手を回すと、そこから出て来たのはいくつかの封書や葉書。そういえば、さっき郵便受けに入っていたものをそこにいれたのだ、と美浜は思い出す。
 眼前に掲げるようにして、彼女はそれらに目を通した。
 完全に逆光の状態になっている為に見づらかったが、差出人と大体の内容くらいは読み取れる。
 どうせいつも通り、くだらないものばかりだと美浜が結論を出しかけた時、――そのくだらない郵便物に混じって、趣きの異なる一通の封書が出て来た。
 青い小花のイラストの添えられた、真っ白な封筒。
 何気なく宛名を見れば、お世辞にも綺麗とは言い難いくせのある丸字で、こう記されていた。

『田中 奈保子様』

 驚き、思わず美浜は起き上がる。今度はちゃんと照明の下で、改めて見返した。
 田中 奈保子様。
 再度見ても、もちろん変化などあろうはずもない。見覚えのある特徴的な字、『田中』という本名の表記。
 慌てて裏返してみれば、やはり表書きと同じ字で、やはり見覚えのある住所と名があった。 
 それを目にして、彼女は思わず顔を綻ばせる。
「ウッソ! なんで!?」
 歓声を上げながら立ち上がり、美浜は慌ててハサミを取った。逸る気持ちを抑え、丁寧な手つきで封を開けると、中から表れたのは封筒と同じイラストの便せん。
 それから、お世辞にも綺麗とは言い難い、見覚えのある特徴的な、懐かしい文字。

  なおちゃんへ
  元気ですか? 私の事覚えてる?

 その一文で始まった手紙は、彼女の中学時代の友人からのものだった。
 懐かしい友達。もう何年も会っていなかった、かつての親友。
 突然の便りに驚きながらも、美浜は喜々としてその汚い字に見入った。あの頃から変わらない文字。おおらかに書き連ねられたそれは、彼女の人格そのままに、不細工だけどとても温かい。
 美浜は、彼女がとても好きだった。
 いつもにこにこ笑っていた少女。
 顔の造りは決して良くはなかったし、それは美浜の自尊心を満足させていた事は否めないけれど、彼女の人当たりの良さはそんな事を気にさせなかった。
 美浜の夢を聞いては静かに頷き、応援してくれた。
 がんばってね、なおちゃん。応援、するからね。
 それが彼女の口癖で、その時の彼女の声も、はっきりと思い出せる。
 別々の方向へ進学して、長く会っていなかったけれど、美浜の中で彼女は特別な存在だ。
 そんな彼女からの、手紙。故郷を離れて長い彼女には、懐かしさで涙が出そうなほどだ。
 昔の思い出話、最近の美浜の仕事についての話、それからやっぱりいつもの言葉。
 がんばってね、なおちゃん。
 今度は、嬉しさに涙が出そうだった。
 授業中に回した手紙と同じ文字で記された、あの頃の少女の言葉。
 最近、美浜の周囲はあまりにも変わってしまった。
 誰も彼もが気を使い、へらへら笑って美浜に接する。楽天的なことを言って励ましながら、それでも皆思っている。美浜の展望が明るくない事を。
 それが判れば判る程に、美浜はより疲弊していった。
 今の生き方を諦めない自分がいるのに、周りは誰もが見切ってしまっている。
 仕事がない。人気がない。それも美浜にとって厳しい事だったが、なによりも、そういった周囲の態度がつらい。
 だからこそ変わらぬ彼女の言葉が、疲れきった美浜に染みた。
 胸の内よりわき上がる感情を必死で抑えながら、美浜はその文面に見入る。
 そして、その一枚目を何度も読み返し、ようやく二枚目に目をやったとき――
 美浜は凍り付いた。
 ――そうそう、なおちゃんにも報告しなくちゃ。
 そんな前置きの後。突然美浜の目に飛び込んで来た『報告』。

  なおちゃん、わたし、結婚したんです。
  言うのが遅くなっちゃったけど、子どもも生まれたんだよ。

  相手の人はとて――……

 そこまで読んで、美浜は手中で手紙を握りつぶした。
 あまりにも簡単に潰れて、ぐしゃぐしゃに丸められた手紙。
 美浜は苛立ちを抑える事もせずに、その『ごみ』を投げ捨てた。
 それは部屋の脇のゴミ箱の縁に当たり、弾かれて床に落ちる。
「……なによ」
 先ほどまでの気持ちが嘘のようだ。美浜の顔が歪む。噛み締めた奥歯がぎりぎりと鳴った。
(そんな事言う為に、わざわざこんなモノよこした訳?)
 がんばってね、なおちゃん――
 がんばってね――……
「なによ!!」
 書かれていた事全てが嘘のように感じられた。
 しあわせそうな少女の笑顔が脳裏に浮かぶ。中学生の姿のままだった。当然だ。卒業式で別れて以来、まともに会った事はない。
 にこにこと、無垢で、人当たりの良い、しあわせそうなその微笑み。
 がんばってね。
 美浜はソファの上のクッションを思い切り殴りつけた。
 ――なによ。
 かつてと違い、人気も支持も仕事もなくなった自分。
 あんなにちやほやしていたくせに、手のひらを返したような態度を取る人々。
 気を使って笑いながら、影ではなにを言っているか知れたものではない仕事仲間。
 自分の生き方、人生、幸福を見つけていく友人。
 なにも見つけられず、何も出来ない、今の自分。
 なにもかもが苛立たしかった。先ほど殴りつけたクッションを、ヒステリックに投げつける。暫く前に同じように放り投げたバックに当たる。
 美浜は憎々しげに歪んだ表情のままで、それらをじっと見つめた。
 クッションの下敷きになった、それなりに使い込まれくたびれたバッグ。その中には、今後の仕事の予定についての資料が入っている。
 ダークネスJAPAN。
 つまらないオカルト番組。くだらない企画。
 それが今の美浜に与えられたものだ。それが全てと言う訳ではなかったが、殆ど全てと言っても過言ではない。
 つまりはそのつまらない、くだらないという事が、そのまま美浜の評価と言う事だ。
 だが。
(……見てなさいよ)
 美浜は拳を握りしめた。
 つまらなくとも、くだらなくとも、それでもそこにはチャンスがあると美浜は知っている。
「戻ってみせる……」
 彼女は呟く。かつての栄光、華々しく輝き、注目されていた自分の姿を思い出した。
 その為ならなんだってやると彼女は決めている。汚れても、泥にまみれても。
 戻ってみせる。
 結婚、キャリア、子ども、地位。友人たちが得たそれらよりも、よほど自分にとっては価値のある場所。
 がんばってね? 言われなくたって、頑張ってみせる。
 いつか、絶対に、戻ってみせる。あの場所へ。多くの人々の視線の中心へ。
 こんな、勝ち誇ったような手紙なんて、もう二度と寄越させてやらない。
 美浜は立ち上がり、乱暴にバックを取り上げた。そして、中から出てくる数枚の書類。
 一度だけ、美浜は先ほどの手紙――今は床に落ちたただのゴミに、ちらりと目をやった。



back


2005.4.30.up