過日


 月明かりに照らされたカールレオン城の、奥まった場所に位置する一室。その主である王子・カイムは、崩れ落ちるようにベッドに腰掛けた。
 小さく溜め息をつきながら、ひどく強ばった右の腕を擦る。
 ――昼間、嫌というほどイウヴァルトと打ち合って、体中が気怠かった。あの負けず嫌いに付き合っていると、いくらなんでも体力が持たない。勝つまではと勝負を挑んで来るくせに、手加減をしてやるとそれは不服だと言う。
 …友人ながら、本当に度し難い奴だ。
 そんな事を考えながら、カイムは手早く寝間着に着替えると、ベッドに潜り込んだ。疲れているときは、何もせずにとっとと眠ってしまうに限る。
 夜も更けた城は、静まり返っていた。温かい布団にくるまって、カイムがとろとろとまどろみ始めたその時。
「兄さま」
 突然、カイムを呼ぶ声が辺りに響いた。
「…フリアエ?」
 聞き慣れた声の主の名を呟きながら、カイムは起き上がって自室の入口に目を向ける。室内は暗く、光源は窓から差し込む頼りなげな月光しかない。だがそれでも、僅かに開かれた扉の隙間に、ひとつの人影を見つける事が出来た。
 その小さな影は滑り込むように部屋に入って来ると、後ろ手に扉を閉める。扉の蝶番が軋む音が響いた。
 カイムは手探りで灯りを付ける。仄かな光のなかに、妹の顔が浮かび上がった。ベッドの傍らに寄って来た彼女が、薄い寝間着一枚しか纏っていないのを見て、カイムは思わず嘆息する。
 ――いくら兄妹とはいえ、こんな時間に、そんな格好で。
 口をついて出そうになった小言をなんとか飲み込んで、カイムは別の問いを投げかける。
「どうした。 眠れないのか?」
 その問いかけに、フリアエがほんの少し頬を染めて、頷いた。
「…怖い夢を見たの」
 彼女の答えに、カイムは思わず苦笑する。
 予想していた通りの返答だった。フリアエは時々、こうしてカイムの寝室に潜り込みに来る。
 怖い夢を見た、嫌な夢を見た、あるいは何となく眠れない、と理由をつけて。母親の寝所でもなく、もちろん父の寝室でもない。必ずカイムの部屋に、だ。
 事実「怖い夢」とやらを見ているのか、それとも何か他に意図があるのか。それはわからなかったが、昔はかなり頻繁に、カイムは妹と共に眠る事を余儀なくされていた。
 だが、最近になってようやく、彼女が兄の元を訪れる事は少なくなった。どうやらイウヴァルトに何事かを口出しされたようだったが、それはカイムの知る所ではない。
 ――いずれにしても、兄離れをするにはいい機会だろう。そう思って、近頃はゆっくりとひとりで眠る事が多くなっていたのだが…。
 まだもう暫く、こういう事は続くのかもしれない。
 それを考えるとカイムは憂鬱な気持ちになったが、ほんの少しだけ嬉しいような気もする。
 複雑な心中を極力表に出さないようにして、カイムは所在なげに立ち尽くす妹に微笑んだ。
「おいで」
 言いながら、彼は自分のくるまっていた布団をまくり上げる。嬉しそうに破顔したフリアエが、その中に潜り込んできた。触れた身体がひどく冷たい。季節は夏に近づいていたが、夜はまだまだ冷える。あんな格好では当然だろう。
「…ちゃんと上着を着てこないと駄目だろう。風邪をひいても知らないぞ」
 思わず眉を寄せた兄に、フリアエは笑ってみせた。
「いいの。だって兄さま、すぐに入れてくれると思ったから」
 その言い草に、カイムは呆れ果てて溜め息を吐く。フリアエは声を上げて笑った。
「いいから、早く寝ろ。もう怖くないだろ?」
 カイムの言葉に、彼女が嬉しそうに頷く。
「…おやすみなさい、兄さま」
 ぴったりとカイムに近づいて、フリアエはようやく安心したように目を瞑った。疲労の溜まったカイムには、彼女の冷えた身体が心地よく感じる。
「おやすみ、フリアエ」
 カイムは軽く妹の頭を撫でると、寄り添ったまま眠りに落ちた。


「――兄さん!」
 フリアエは叫びを上げながら、弾かれたように飛び起きた。
 息が上がっている。気付けば、体中が汗でじっとりと湿っていた。彼女は震える手を上げて、まじまじと掌を見つめる。何度か、指を動かしてみた。
 それで、ようやく自分の状況を確認する。――では、あれは夢なのだ。
 フリアエは脱力感に苛まれ、力なくその瞳を閉じる。瞼に、先ほどの兄の顔が浮かんだ。手の触れる、息がかかるほどの距離にあったあの微笑み。
「兄さん…」
 フリアエは顔を手で覆い、震える声でカイムを呼んだ。夢の中の兄。あの身体の温かさ。何度も打ち消そうとしてきた想い。
 …時が経つほどに募るこの愛おしさを、どうして忘れる事が出来るだろう。
 フリアエの瞳から涙が落ちた。共に過ごした、かつての幸せな日々を思い出す。
 あの後、兄がすっかり眠りに落ちた事を確認してから、兄の顔をじっと見つめた。髪に触れ、頬にキスをして、時にはその唇にも触れた。
 カイムは恐らく気付いていなかったのだろう。その為にフリアエは敢えて、彼がひどく疲れた様子の時を狙い、彼の寝室を訪れたのだから。穏やかな寝息を立てる兄を間近で見つめていた時、彼女は本当に幸福な気持ちでいっぱいだった。
 それなのに。フリアエは唇を噛み締める。
 あの頃は、こんな事になるとは、本当に夢にも思っていなかった。大人になれば、ああして間近で触れる事は出来なくなる。それはわかっていたし、仕方のない事だと納得もしていた。
 けれど、今、こうして会う事さえも出来なくなるなんて。
 話す事も、微笑みを見る事も、あの手に触れる事も二度と出来なくなるなんて。
「カイム兄さま…!」
 ――兄さん。カイム兄さま、お願い、側にいて。
 怖い夢を見たの、とても怖い夢だったのよ。本当よ兄さん。嘘じゃない。ねえ。怖い。ここはとても寒いわ。だから、側に行ってもいいでしょう? あの時みたいに側にいて。抱きしめて。寄り添って眠らせて。兄さま。
 どうしていけないのよ、ねえ!
 心中で叫びを上げるフリアエ。だが、そんな彼女に応える声はなく、代わりとばかりに下腹部に激痛が走る。
 こうして兄への思慕を募らせる度に、その感情を戒めるように襲ってくる痛み。それは嫌が応にも、己に与えられた役割を思い出させた。
 同時に、その役割への怨みと怒りがわき上がる。彼女は苛立ちに任せて、己の腹を思い切り殴りつけた。
「う…ぐぅ…っ」
 もちろん、それで何が変わる訳でもない。より激しくなる痛みにフリアエは呻き、咳き込んだ。そのままベッドに倒れ込み、しばし苦しそうに呼吸を繰り返す。己の吐く息の熱さに、喉がひりひりと焼け付き、激痛が走った。
「たすけて…」
 フリアエは願いを込めて手を伸ばす。だが、その腕は空しく空を切った。もう、差し出した手を取ってくれる、あの優しい掌はない。
『おいで』
 そう言って笑ってくれたカイムには、もう二度と会えない。フリアエは絶望のままに叫びを上げた。更に激しさを増すオシルシの痛み。

 やがて苦しさからその意識を手放そうとするフリアエの耳元で、誰かが囁く声がした。

「おやすみ、フリアエ」

 現ではあり得ない、その優しさに。
 フリアエはただ、涙を流した。





*後記* 2010.4.14.up.(written:2005.7?)
春か昔に人目に触れた事のある(らしい)物件。
ドラッグオンドラグーン、好きです。
カァアアァアァアァイムが好きです。
唐沢寿明さんと池畑慎之介さんがえらい好きになった作品でした。


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