綴
「愛しているの」
彼女はその双眸に涙を溜め、男を見上げて言った。
彼は複雑な表情で微笑みながら、彼女の髪に手を伸ばし、答えた。
「ありがとう。でも、僕は行かなくちゃ」
「……どうして!」
少女が叫んだ。大粒の涙の雫が彼女の大きな瞳から零れていった。
男はゆったりと微笑む。
「君の為に。君を守る為に、僕は行くんだ」
――ぱたん。
そこまで読んで、知子は勢いよく、手にした文庫本を閉じた。
やっぱり、悲しい小説は好きじゃない。
知子は手の中の本を机に置くと、一度大きく伸びをした。長い間同じ体勢でいたせいか、全身が凝り固まっている。頭上にのばした肩が、小さく鳴った。
出かけたあくびをかみ殺して、ふと、知子は先ほどまで熱心に目を走らせていた本を見る。くすんだ木目の勉強机には不似合いなほど、明るい色彩の装丁の文庫。
そこに描かれた主人公――美しい金髪の少女と、彼女に寄り添う銀色の羽を持ったライオンのイラストが、知子の目に飛び込んできた。誰が描いたものかは知らなかったが、色使いも繊細なタッチも、嫌いじゃない。
でも、と知子は息を吐く。再び本を手に取った。
美しい金髪の少女。紙の上で、彼女はライオンに寄りかかるように抱きつき、どこか悲しそうに虚空を見上げている。
その絵が小説の内容を思い出させて、知子は少しだけ、陰鬱な気分になった。
最近親しくなった友達から借りた、海外のファンタジー小説。すごく感動するから、とお墨付きの作品だったが、どうやら知子の好みにはそぐわないようだ。
知子は本を手にしたまま立ち上がると、学習机の脇に寄せて置かれた鞄に、それを丁寧にしまい込んだ。ついでに明日の教科の支度を終わらせる。ファスナーを閉めると、イラストの少女の顔は見えなくなった。
「ごめんね」
借りて来たはいいが、結局、最後まで読み終える事さえしなかった。罪悪感から、知子は小さく呟く。
わざわざ貸してくれた友達には本当に申し訳ないけれど、そしてこの表紙の少女にもすまなく思うけれど、どうしてもこの先を読む気にはなれなかった。
先の展開を聞いてしまっていたのも、原因のひとつだったのかもしれない。知子は何となく、そんな事を考える。
この本の持ち主である友人は、よほどこの話を気に入っているのか、知子に本を薦めた時に粗筋を紹介してくれていた。
熱っぽく語る彼女曰く、主人公の少女が愛する青年は、戦争に赴くのだと言う。異形のものたちが互いに喰らい合い、血で血を洗う恐怖の戦場。少女は自分の持てる力全てで彼を救おうとするが、――最終的に、男は敵国の将軍に胸を突かれて殺されるのだそうだ。
知子はそれを聞かされた時に感じた、苦い気持ちを思い出す。
悪い子ではなかったが、こういう所はとても無神経だと、知子は思う。結末を教える事が親切だとでも思っているのだろうか。少なくとも、知子にはそう思えなかった。
ストーリーを知って最初から気は進まなかったが、予想通り、読み進めれば読み進めるほどにうんざりとしてくる。最終的に主人公の想いが叶わないとわかっているから、願いを込めて先を読む事も出来ない。
それでなくとも、悲しい話は嫌いだった。
知子は深々と溜め息を吐く。
「わかってなければ、まだ読めたかもしれないのになぁ……」
ふとそんな考えに至って残念に思いながらも、口にした瞬間に少しだけ心が軽くなるのを感じた。
――そう。自分だけが悪い訳じゃない。
明日この本を返す事を思うと、まだ憂鬱な気持ちは残ったが、それも仕方がない事だ。素直に好みじゃなかったと添えて、さっさと渡してしまえばいい。
ひとりそう納得すると、知子は再び勉強机の椅子に戻った。
椅子に腰掛けると、本棚に収められている本に手を伸ばす。先ほどの文庫本などとは違う、ハードカバーの一冊の本。
それは、知子が特別気に入っていた話だった。
一度図書館で借りた時にとても感動して、母親にどうしてもと頼み込んで新品を買ってもらった。それ以来、大切に丁寧に読み続けてきた本。
両手で大事そうに持ち上げ、知子はじっとその表装を見つめる。
そこには、不思議な模様が描かれていた。先ほどの文庫に描かれていた漫画のようなイラストなどとは違う、白を基調としたシンプルな画面の中、描かれているのは波紋にも似たいくつかの円。水面を思わせる淡いグラデーションの中心には、かわいらしい書体でタイトルが書かれている。
知子は、その本が本当に大好きだった。内容はもちろんだが、その表紙も不思議と知子に好ましく映る。
ぱらぱらと、何気なくページをめくった。分厚くて、文庫に比べれば読みづらく感じたが、それでもやはり、知子はこの本をとても気に入っていた。
なによりも、この本の中で、主人公はハッピーエンドを迎える。先ほどの本のように誰かと別れ、死んで行く事もない。悲しみに暮れて、涙を流す登場人物もいない。ささやかな日常の幸福を、静かに描いた短編集。
――やっぱり、読むならこういう話が良い、と知子は息を吐く。何が悲しくて、わざわざ気分が沈んで行くような悲恋を読まなければならないのか。
どうせ読むなら、とびっきり幸せな話がいい。そして出来れば、自分の人生もこんな話のように、穏やかで幸福になればいい。好きな人と結ばれて、大切な人たちと悲しい別れをする事もなく、小さな事に感動しながら暮らせたら、たぶん、それは素敵な事なんだと思った。
ふと、知子は自分自身の将来について、思いを巡らせる。これからどうなっていくか、具体的な事はまだまだ夢の中の想像でしかなかった。だからといって今、望んでいる事がないわけではない。ありふれた幸福に満ちた未来、そしてその想像の中にひとりの友人の姿を思い浮かべて――
「知子?」
その時、丁度入って来た母親に声をかけられて、浮かんだ姿は霧散した。知子はあわてて振り返る。
「もう遅いんだから、早くお風呂に入りなさい」
「あ、うん。わかってる」
知子は取り繕うように短く答えてから、軽く手を振った。その動作に母親は不思議そうに首を傾げ、次いで知子の持つ本に目を留めて嘆息する。
「……あなた、その本好きねぇ」
半ば呆れたような母親の声に、知子は苦く笑ってみせた。母のこの手の小言は聞き慣れている。続く言葉も、容易に予想出来た。
「まったく……本ばっかり読んでるんだから。ほら、お風呂片付かないでしょ。早く」
「はぁーい」
思い浮かべた通りの文句に、思わず顔をしかめる。それは耳にタコができるほど、繰り返し聞かされた言葉。知子は投げやりな返事をして、軽く唇を尖らせた。部屋から出て行く母の後ろ姿を見つめ、肩を落とす。
本ばっかり、なんて。お母さんだって、文句ばっかり。
知子は溜め息をつきながら丁寧に本を棚に収める。少しの間それをじっと見つめてから、彼女はその隣に収められたノートに手をかける。
一冊の、やや厚みのあるノート。彼女はペンスタンドから一番お気に入りのシャーペンを取り出すと、ノートを開いた。
癖のついたページをぱらぱらとめくり、やがて現れた真っ白なページで手を止める。しばし考え込んだ後で、その紙上にペンを走らせた。お気に入りのキャラクターのマスコットの付いた、赤いシャ−ペンで綴られる言葉。
このノートの事は誰にも話した事がない。誰にも言えない感情を綴ってきた一冊の日記。
書くべき事は、今日一日にあった些細な出来事、借りて来た本と貸してくれた友人へのちょっとした文句、クラスの事、クラスメイトの事、それから、……それから――
たくさんのたわいのない言葉と、感情。さらさらと澱みの無い動作で書き上げた瞬間に、母親の怒鳴り声が聴こえて来る。
「知子!いい加減にしなさい」
「……わーかってるよぉ」
知子は口を尖らせて、そう声を上げた。ノートを閉じかけて、知子はふと、手を止める。一度は置いたシャ−ペンを手に持ち直して、ノートの最後にもうひとことだけ文章を付け足す。
「お母さんも、もう少し口うるさくなくなるといいんだけどなぁ……」
口に出した言葉をそのまま綴って、知子はようやく手を止めた。手早く片付けて、ノートも定位置である本棚の一番端、先ほどの本の隣にしまう。そうして知子は席を立った。――これ以上、母親の怒鳴り声は聞きたくない。
言われた通りに風呂へ向かおうとして、彼女が一度だけ足を止める。ちらりと本棚におさまる日記を見遣った。
知子は明日の夜、今日のように日記を付ける時の事を想う。
明日は、今日よりもいい事を描けるといいな、と、願いを込めて心中で呟いた。本を返す時の事は憂鬱に思うが、それ以外に何かいい事がありますように、と。
更に欲を言えば、毎日の日記に必ず顔を出す意中の人物と、多少の進展があるともっといい。お気に入りのあのストーリーのような、ちょっとした出来事が起これば文句はない。明日が無理なら、明後日でも明々後日でもよかった。あのノートにはまだ半分以上の白紙がある。その白紙が全てなくなっても、新しいノートを買ってくればいいだけの話だ。
(次のを買うときは、もっとかわいいやつを買おう)
知子はそんな考えに、ふと笑みを洩らした。数日前に文房具屋で見かけた、とてもかわいらしいノートの事を思い出す。水色に水滴をモチーフにしたイラストは、日記の隣に収められた本の装丁を思わせた。……そう、あんなノートがいい。
「知子っ!」
しかし、その思考を断ち切るような険しい声が、彼女の耳に届く。知子は軽く肩をすくめた。そろそろ急いだ方がいいかもしれない。
「今、行く」
返事を返してから、知子は部屋の電気を消して、部屋を早足で出て行った。
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2005.10.17.up