マッシュ
その日、セリスは夜更けに目を覚ました。
彼女が休んでいた場所は、果てしなく広がる荒野。そこには見るべき物など何もない。ただひとつ、彼女の前方、少し離れた位置で煌々と炎が燃えている。
セリスは身じろぎもせず、視線だけを動かした。先ほどまで深い眠りに落ちていたせいか、視界はぼんやりと霞んでいる。だが、対して意識の方ははっきりしていた。彼女は目を凝らす。赤い赤い炎。その赤に照らし出された彼女の荷物と、炎の傍らに腰掛けるひとりの男。丁度その時、彼がその焚火に枯れ枝を放り込んだ。炎がゆらりと揺れて、男の影もまた揺れる。
その姿を認めてセリスは安堵し、次いでそのような感覚を憶える己に驚いた。考えてみれば、こうして深い眠りについたのも、随分と久しぶりのように思える。
小さな孤島を出て、荒れた平原を彷徨い、訪れたツェンの街でようやくかつての仲間と出会えたのが昨日の事。こんなにも穏やかな気持ちで休んだのは、一年にも渡る永い眠りから覚めて以来、初めての事だったかもしれない――そのように思い至って、彼女は思わず苦笑を漏らす。
はじめて、疲弊しすり切れていた己を自覚した。
その時、彼女が笑った事に気付いたか、男がセリスの方に顔を向ける。
「お。起こしちまったか?」
彼はすまなそうに呟きながら、今度は束ねられた植物の蔓を手に取り、適当な大きさに千切り、纏めながら火の中に焼べていく。その度に舞い上がる火の粉が、闇に踊って消えて行った。彼女はそれを目で追いながら、男――マッシュに語りかける。
「ごめんなさい。随分眠ってたみたい」
「そうでもねえよ。もう少し休んでろ」
彼が軽く笑う。同時に、もう一本枝が炎の中に投げられた。
「もう平気。今度はあなたが休んで」
そう言って身を起こしかけたセリスを、彼が手を上げて制止する。
「いいから、寝てろ」
「でも」
「大丈夫だ」
強い口調で言われて、セリスは仕方なく言われた通りに再び横たわる。しかしすぐに起き上がって、毛布を引きずって火の側に歩み寄った。この辺りの夜は、ひどく冷える。立ち上がったセリスは肌に触れた外気の冷たさに身を奮わせ、毛布を体に巻き直してから、マッシュの横に移動して座り込んだ。
「おい」
不満そうに声をあげるマッシュに、セリスは苦笑を返す。
「目が冴えたの。交代する」
マッシュの手から燃料代わりの蔓の束を奪い取り、それを手で玩びながら言葉を続ける。
「あなたの方こそ眠って。私は充分休んだから」
だが、マッシュがその場から動く気配はない。セリスは小さく溜め息をついて、彼から視線を外す。とりあえず握った蔓を火に焼べようと、両手に力を込めた。先ほどマッシュがそうしていたように、適当な大きさに千切ろうとして――しかし、懸命に力を込めたにもかかわらず、蔓は僅かに伸びただけで切れはしなかった。
セリスは眉を寄せ、蔓に爪を立て、引っぱり、なんとかねじ切ろうとするが、思うように行かない。それを見かねたマッシュが、笑いを堪えながら手を出した。
「貸してみろ」
一瞬躊躇ったが、セリスはやむなく束を彼に手渡した。マッシュは蔓を2、3本纏めて握りしめ、力任せに引きちぎる。セリスが驚いて目を開くと、彼は可笑しそうに笑みを浮かべて、短く分かれた蔓を投げて寄越した。
「コツがあるんだ。ちょっと捻りながら、思いっきり引いてみ」
返って来た蔓の切り口をまじまじと見つめる彼女に、そう助言する。セリスは言われた通りにしてみたが、やはり彼のようにはいかない。
「……相変わらず、すごい力ね」
半ば呆れたように呟けば、マッシュは大声を上げて笑う。静まり返った果てのない広原を揺らすような大音声。セリスもつられて笑いながら、マッシュの千切った蔓を焚火に投げ込んだ。
そのまま、結局どちらも休まず、ぽつりぽつりと話をした。
流れた一年という時間は、長く眠り続けていたセリスにとっては実感が無く、そこから得たものも無いに等しかった。だが、マッシュにとっては違う。変わってしまった地形、崩壊し荒んだ街について、滅びかかる世界について、そして仲間の事について。マッシュはその一年と言う時間の分だけ、セリスよりも多くの事を知っている。彼はその全てをひとつずつ話した。
そうして一通り語り終えたマッシュが口を閉ざした時、セリスは心中で呟いた。
一年。その意味を考える。
一年間探し続けて、しかしマッシュは誰とも出会えなかった。消息を尋ねて回っているのに、手がかりすらもほとんどつかめていない。マッシュとて世界中を歩き尽くした訳ではなかったが、それにしても誰の足取りも掴めないというのは、状況が思っていたよりも悪い。
向こうがこちらを探しているなら、その痕跡がどこかに残っていても良いはずだった。どこかで、セリスやマッシュを探している人がいるなら、その誰かを知っている人が居ていいはず。だが、そんな話も聞く事が出来なかった。一年間探して出会えない仲間。一年待ってもめぐり逢えない人。その意味は――
ひとつの答えを導き出しかけて、セリスは慌ててかぶりを振る。
「どうした?」
マッシュが問いかけてきたが、適当に笑って誤魔化した。同時に、違う、と強く念じる。
浮かびかけた結論、それを信じる事は簡単だった。信じ、諦め、足を止めてしまう事は多分なによりも容易い。だからこそ、セリスはその考えを振り払うように固く瞳を閉じる。繰り返した。それだけは絶対に違うと。
「……マッシュと会えて良かった」
彼女は胸に溜まった息を吐き出しながら、呟いた。そうして浮かんだものとは違うことを口に出せば、頭を支配していた誤った答えがするりと解けて消えていく。
一年間探し続けて、マッシュは少なくともひとりと会う事が出来た。消息を尋ねて回って、手がかりすらもつかめていなかったはずのセリスに、それでも会えたのだ。マッシュとて世界中を歩き尽くした訳ではないのだから、それで再会出来たというのは、あるいは状況が思っていたよりも良いのかもしれない。――そう思う事にする。
それに、約束したのだ。きっと戻る。みんなを連れて。――それは、祖父と呼び慕った男と交わした、誓いだった。違えるつもりは、もちろんない。
セリスは瞼を開いてマッシュを見た。彼は不思議そうに首を傾げて、黙ったままセリスの次の言葉を待っている。セリスは破顔した。
「会えるわね」
誰に、とは言わない。無論、皆にだ。
言った瞬間、眼前の炎の中で大きな音を立てて薪が崩れた。激しく舞う火の粉の向こうで、マッシュが息を吐く。赤く照らし出された表情は、優しい。
「おう」
そして彼は当然だろ、と力んでみせる。
求めるもの達がどこにいるかはわからなかったが、今はもう、島を出たときのように独りではない。かつての仲間であり、今も共に支え合える友人が、この荒んだ世界にも一人は居るのだ。
ただ、出会えた事。誰かに背中を預けて戦える事。夜火の側でゆっくりと眠れる事。そして信じられる者がそばにいる事が、何よりも心強い。
ほどなくして、東の空がうっすらと明るくなり始めた。地平まで続く広大な平原が少しずつ陽光に照らされ、その荒れ果てた姿を曝け出す。草木の生えない大地はあまりにも寒々しく、また恐ろしくもあったが、それでも夜明けの光は良い予感をセリスにもたらしてくれる。
「ずいぶん話し込んじまったな。大丈夫か?」
マッシュが伸びをしながら問いかける。セリスは頷いた。
「ええ。マッシュこそ」
「俺はいいんだよ」
彼は立ち上がり、軽く身体を伸ばしながら、笑う。
「よし。それじゃ、行くか」
尻に着いた泥を叩いてから、マッシュは火の始末に取りかかった。セリスも手伝おうと手を伸ばしたが、制止される。マッシュの手際の良さにぼんやりと見とれている間に、彼は処理を終えて手早く荷物を片付け始めた。
「慣れてるのね」
「ぼさっとしてないで、そっちの荷物まとめてくれよ」
端から見ているだけのセリスを、マッシュが呆れたような口調で叱咤する。慌てて作業に取りかかった彼女の背後で、笑い声が上がった。
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2005.11.24.up.