カイエン=ガラモンド

 シドに見送られて島を出てしばし。壊れかけた世界で、やっとの思いでひとりの友人との再会を果たした日から、一ヶ月程の時間が過ぎた。
 ひとり、またひとりと仲間を見つけて、セリス達はひとつの翼を手にいれた。その翼で更に速く、広く、遠くまで世界を巡っては、日々が流れて行く。
 全てを破壊し尽くされ、生きる気力をなくした人を見た。そんな人々に放り出されたまま、直される事もなくそびえる剥き出しの鉄骨、今にも崩れ落ちそうな廃墟も見た。街角で倒れて動かない男を、ひとり道ばたにうずくまり咽ぶ子どもを見た。落日と夜闇に照らされる絶望。――だが、それだけじゃない。
 なお希望を失わず賢明に生きる人。自分の事で精一杯だろうに、それでも力なく項垂れる隣人に手を差し伸べる青年。彼らの手で懸命に修復され、復興の兆しを見せる街を見た。昇る陽の明るさと同じだけの、希望の色だ。その光に後押しされて、彼女はまた一歩前に進む。
 そして、また一人、かつての友人に出会った。険しい山中で再会した男は、以前と変わらず優しく、強い眼差しをしている。仲間との再会が果たされるたび、あるいは彼らの消息を掴めるだけでも、その都度世界は明るくなる。期待が胸に去来し、それが更にセリスの力となった。
 しかしそれでも未だ、彼女の胸につかえるものがある。決して消える事はなく、ことあるごとに彼女の心を波立たせた。
 どれだけ希望が見えても、彼の消息だけは、杳として知れない。その事が何を意味するのか、考えまいとしても脳裏によぎる、不安。
 彼女が最も望んだもの、彼女を最も勇気づけたあの青い光は、まだ戻ってはいない。


 セッツァーの友人の墓地を訪ねて以来、野営をするという事がほとんど無くなった。彼の旧友が残した翼は、セリス達の帰る家となったのだ。
 暖かい寝床と、暖かい食事。戦闘で疲れきった身体を癒すものが揃った飛空挺は、すでにすっかり生活に馴染み、自宅のように寛いだ感覚を与えてくれる。不満はない。
 だのに心からの安らぎが訪れないのは、なぜか。――その理由なら、セリス自身とっくに気付いている。
 ここには、彼がいない。たったそれだけの他愛もない事実が、時折セリスの心を苛んだ。目を閉じても恐ろしい悪夢に魘され、夜半に目覚める事も少なくない。
 その日もまた寝付く事が出来ずに、セリスはふらりとデッキに足を運んだ。昼間の戦闘で、体は疲労している。なのに、妙に気分が高揚して眠れなかった。こういうことは最近頻繁に起こるので、セリス自身はあまり気に止めなくなって、久しい。休息が多少減ったからと言って、すぐに変調を来すほどやわな体はしていない。問題なのは持て余した感情の方だ。
 胸を埋めるのはひたすらに怖れだった。
 どれほど世界が明るくなっても、希望と言う光が日に日に大きくなっていっても、最も強く求めるものだけは、その輝きの片鱗すらも見えない。
 昼間のうちは良い。ひたすらに前へ進む事だけを考えられる。朝の光を見れば、今日こそはと強い気持ちで立ち上がる事が出来た。だが、夜になり、一人になるたび、どうしようもなく心が騒ぐのだ。一度は拭われたはずの不安はあっさりと再び燻って、日ごとその焦燥は募って行った。
 どんよりと翳る雲の切れ間に、星明かりが見えた。ちかちかと瞬く光を見ても、気鬱は晴れない。それどころか、いっそう悪くなるばかりだ。
 こんなことが続けば、いずれ本格的に参ってしまう。危機感を感じてはいるが、どうにも大人しくベッドに収まる気分にはなれない。
 手すりに体重を預け、憂鬱に息を吐く。丁度その時、彼女の背後の扉が軋むような音を立て、開いた。近付いてくる気配に気付き、ゆっくりと振り返る。
 そこには、ほんの昨日再会したばかりの男がいた。彼はセリスの姿を見て、ほんのわずか驚いたように目を見開いた。だがすぐに柔らかく破顔する。
「何をしてるでござる?」
 落ち着いた声音と、特徴的な喋り方。例え夜闇で顔が見えなかったとしても、言葉を聞けば誰だかわかるだろう。東方の訛りなのか、奇妙な抑揚と語尾で問いかけながら、カイエンは歩み寄って来た。だらしなく手摺に寄りかかっていた身体を起こし、セリスは微笑む。
「空を見ていたの。眠れなくて」
 嘘を吐いた所で意味はない。正直に応えると、カイエンはそうか、と小さく頷いた。
「星が見えるのは、珍しい」
 カイエンが呟く。隣の男に倣うようにして、セリスも再び空を見た。
 そう、確かに、珍しいことだ。陽が落ちると空を覆う雲に隠され、月はおろか星も見えない夜が多い。わずかな雲の切れ間からとは言え、光を視認出来るのは稀な事だ。カイエンはその稀な光をじっと見据えていたが、ふとその表情を険しくした。
「不思議なものでござる」
「なにが?」
 ことりと小首を傾げると、カイエンは朗らかに目を細め、笑ってみせた。口元に蓄えられた髭の奥に、白い歯が覗く。
「最初に会った時、拙者がおぬしに何と言ったか、覚えているでござるか?」
「……ええ」
 セリスは静かに頷き、瞳を閉じた。その瞬間脳裏に蘇ったのは、こちらを睨みつける男の形相、その激しい眼差し。
『この帝国のイヌめ!』
 忘れてはいない。今目の前にいる男とは似ても似つかぬ顔つきだったが、確かにあれはカイエンだった。彼の心身を灼く帝国への怒りはその面相を替えてしまうほどに烈しく、さしものセリスも怯むほどの気迫を放っていた。
『お主を信用したわけではないのだぞ……!』
 侮蔑と憤怒を込めた口調で、まるで吐き捨てるように言われた。気丈に返したが、その実、内心ではひどく動揺していたものだ。
 今となっては失われた東方の国、ドマ。列国に名高い士を初めて目の当たりにし、憎しみを一心にぶつけられて、身が竦む思いを味わった。
「確かに、不思議ね」
 ぽつりと呟き、セリスも笑った。
 あの鬼のような顔をしていた男が、いま、こうして隣で微笑みを向けている。夜の静寂の中、穏やかに語り合っている。帝国とドマ国、滅ぼした側と滅ぼされた側。互いに相容れない場所に立っていたはずが、気付けばこうして横に並び、星を見上げている……。
「一年前でござるな。……随分時間が経ってしまったように思うが」
「そうね」
 そう。随分と昔の事に感じられるが、実際にはたったの一年前のことだ。こっそりと苦笑して、彼女は再び、目を閉じた。
 あの時のカイエンの顔を思い出す時、その記憶を遮る背中がある。刀に手をかけ、今にも抜刀しようと構えるカイエンと、一歩後じさったセリスの間。両手を広げて立ちふさがったのは、青い上着の背。
 あの時彼は言ったのだ。セリスに向けられた怒り、その間に立ちはだかり、決然とした眼差しでカイエンに告げた。
『俺は、こいつを――』
 彼はまだ、あの言葉を覚えているのだろうか。――否。ちがう、とセリスは絶望的な気持ちで呟いた。
 覚えているのだとしたら、いま、彼は少しでもセリスの事を考えてくれているはずだ。もしも覚えていたのなら、彼はきっと、セリスを捜していたに違いない。もしもその可能性がほんの少しでもあったのなら、疾うに彼の足跡は辿れていただろう。
 だが、そうはならなかった。その意味を考えて、すうと血の気が引いて行くのがわかる。忘れているだけならば良い。約束なぞどうだっていい。それならば良かった。でも、もしそうでないのなら――
 その時、セリスの肩に暖かな手が置かれた。はっと顔を上げると、カイエンの大らかな微笑みが眼前に広がっている。
「明日には何かわかるかも知れぬ」
 気を落とすな、と背中を撫でられ、セリスはまた俯いた。目の奥が熱い。
 何が、とは言わなかったが、もちろん分かった。カイエンと再会した時、真っ先に聞いたのだ。彼の消息を知らないか、と。しかしセリスの問いに、彼は首を左右に振った。カイエンだけではない、仲間の誰もが、だ。
 心に沸き上がる不安を幾度も打ち消し、けれど再び生まれて、苛まれ、そうして夜を越えて来た。仲間に囲まれていても、どこか本心から笑えなかったのは、全て、彼がすでにこの世にいないのではと恐れていたからだ。怯え、恐れ続けて、いつの間にか消耗していた。
 背に触れる掌の感触に、セリスの命を救ってくれた男の指を思い出した。それと同時に守ると約束してくれた、あの優しい声を、思い出し――
 想いは雫になって、ぽたりと零れた。
 信じる事に疲れ始めていたことを、セリスは静かに認めた。わずかに一ヶ月。けれども彼を捜し、手がかりの一つも得られない日々、その夜は恐ろしく長く感じられた。
 もう会えない。そんな気がしていたのだ。最初から胸に燻っていたその疑念は、やがて確信じみた脅迫となって思考を支配し始めた。
 あるいは諦めようとしていたのかもしれない。再会を信じて彼の手がかりを捜しているはずが、いつの間にやら諦める為のきっかけを捜しているような気持ちになっていた。それを自覚し、認めた途端に、セリスの両目からまた涙が溢れた。
 けれども隣から、泣くな、と囁く声が聞こえる。背を撫でていた手が離れ、強い力で叩かれた。顔を上げカイエンを見ると、彼は厳しい顔でセリスを見下ろしていた。
「諦めてはならん」
 全ての甘えを切り捨てるような、決然とした声だった。
 セリスは唇を噛む。諦めるなと言われた所で、頷くにはすでに疲れ果てていた。けれども首を横に振るには、想いが強すぎた。どちらにも行けずに項垂れる。すると、もう一度、どんと背中を叩かれた。
「顔を下げるな。前を向くでござるよ」
 これには、もう、何も応えられなかった。
(前に、何があるの)
 叫びは、嗚咽に紛れて声にならなかった。滲む視界では何も見えない。一度は見えたはずのあの青も。明日も。星の光さえ、なにも。


    


2010.04.13.up.