ガストラ
その建物を訪れたのは、すでに日暮れ近い刻限であった。
少なくとも一年前にはなかった。かつては西の大陸北端であった場所、ジドール国の北に位置する平原に、突如として現れた巨大な建造物。外からでは中の様子は全く分からず、恐る恐る足を踏み入れてみれば、中は異様なほどの活気に満ちていた。
そこはコロシアム。命知らずの猛者達が力を競い合う、乱世の遊技場だった。
説明を受けて目を輝かせたのは、意外な事にエドガーだった。
「面白そうじゃないか」
そう呟いて装備を確認した彼は、いそいそと参加の登録をしに行った。昔から賭け事を好む質だった、と苦笑したのは、彼の双子の弟のマッシュである。
「ちょっと意外だろ?」
「……少し」
小さく頷くと、マッシュは豪快に笑った。
屈強な体躯のこの男は、見た目に反する穏やかで生真面目な所があって、あまりコロシアムの制度に興味はないらしい。彼に誘われるまま、セリスは建物内を探索しつつ観客席へと向かうことにした。
闘技場はかなりの広さがあり、観客席も多くの人々で賑わっていた。世界中から人が集まっているらしい。中央に設けられた広場に目を向ければ、丁度エドガーがモンスター相手に槍を振り回している所だった。
何を賭けたのかは知らないが、相手となるモンスターの強さは、賭けるアイテムの質によって決まるらしい。エドガーの槍を鮮やかに避けたのは、少なくともセリス達がまだ出会った事のない、大型の鳥のモンスターだった。大きな翼を広げて風を起こしながら、その爪はエドガーを狙っている。巨体に似合わぬ俊敏な動作で空を駆け、その風切羽がエドガーの腕を翳めた。
「エドガー!」
思わず、叫ぶ。セリス達の目の前で、切り裂かれた彼の腕から鮮血が迸った。傍らのマッシュも身を乗り出し、不安げな眼差しで兄を見つめている。
観客席は奇妙に静まり返って、戦闘の行方を固唾をのんで見守っているようだ。その時ふとエドガーの腕が――血を流す左腕が突き上げられ、その指先から冷気の奔流が迸る。彼が先日覚えたばかりの魔法、ブリザラだ。
直撃を受けた巨鳥が怯み、飛び退いた隙を見計らって、エドガーは強く踏み込んで駆け出した。加速が付いた所で地面を蹴って、彼の身体は宙高く飛び上がる。
周囲からどよめきが起こった。――彼の履く竜騎士の靴に込められた魔力が、彼の身体をモンスターよりも更に高く飛び上がらせる。構えた槍をそのまま鳥の頭部目掛けて突き降ろし、それですべてが終わった。
鳥と共に落下して来たエドガーは、強く身体を打ったのか、少しだけ辛そうに身を起している。傍らで赤い血を流すモンスターは、数度痙攣した後、そのままぴくりとも動かなくなった。
一瞬静まり返った観客が、一斉に歓声を上げる。
ほっと息を吐いて、セリスは胸を撫で下ろした。その様子を見たマッシュは、苦笑して肩を竦めた。
「心臓に悪いな」
「そうね」
深く嘆息しながらマッシュに同調する。歓声を一身に浴びながら、エドガーは商品を受け取っている所だった。セリス達の心配を他所に、晴れやかな表情をしている。それを苦い思いで見遣ってから、セリスは席を立った。
「どこに行くんだ?」
見上げるマッシュには曖昧な笑みだけを返し、そのまま観客席を離れた。
このところ、身体がひどく重い。ともすればすぐに沈みがちになる己を自覚して、セリスは深く息を吐いた。
こうして賑やかな場所にいても、どうにも気分が晴れない。それどころか、喧噪を疎ましく思い、苛立ちで胸中がひどく荒んだ。感情のコントロールが利かず、それがまたいっそう腹立たしい。悪循環だ。
客席を離れ、静かな場所を探す。ようやく人気の少ないロビーに辿り着き、ほっと安堵の息を吐いた、その時だ。
「さっき戦ってたやつ、あんたの連れだろ?」
横合いから声をかけられ、振り返る。
「強いねぇ」
呵々と笑った男の風体を見て、セリスは絶句した。
それは一年前、当たり前のように彼女の周りに在ったものだ。見慣れた茶の革。頭部を覆う兜の鈍い輝きも、腰に下げられた剣の形状すら馴染みがある。
(帝国兵――)
心中で呟き、男の顔をじっと見つめる。帝国、という組織が壊滅してから、すでに久しい。それなのになぜ、こんな恰好で?
しかし兜の奥に光る目に敵意がない事を確認して、セリスは身体に込めた力を抜いた。この男が帝国の鎧を脱がない事には、何かしらの事情があるのかもしれない。特に理由もなくただ惰性で着続けているだけかもしれない。いずれにしても、無害であるのなら個人の自由であり、セリスには関係のない事だ。
だが、どうして、と新たな疑問が湧く。セリスは小首を傾げた。
「どうして、そう思うの?」
エドガーが、セリスの連れであると。それは事実なのだが、なぜこの男はそう思ったのだろうか。
この疑問に、男はにやりと口角を上げた。
「似てるだろう。その瞳」
セリスの顔を指差して、男は呟く。
「ここにいる奴らとは違う目だ。……こないだ会った男も、そんな目をしてたな」
「男……?」
訝しむセリスに、男は気負った風もなく微笑む。ぐるりと頭に何かを巻くような動作をしながら、
「青いバンダナを巻いたやつだ」
と。言う。
その瞬間に、セリスの心臓が大きく鼓動を打った。
「あおい、バンダナ?」
確認するように、呟く。またひとつどくりと鼓動が跳ねる。男を見る。もう一度、どくんと。
全身に血が駆け巡り、ひどく熱い。指先が震えそうになるのを、拳を握って賢明に耐えた。セリスの様子からなんとなく悟ったのだろう。彼は軽く肩を竦めてみせた。
「やっぱり知り合いか」
その声も、どこか遠くから聞こえて来るもののように、虚ろに響いて聞こえる。自分の心臓の音だけが耳元に強く響いて、ひどく耳障りだった。顔に熱が集まる。鼻の奥がつんと熱い。
歯を食いしばって、セリスはあふれる感情を押し止めた。震える足に力を入れて、目の前の男に一歩近付く。
「彼は、どこに」
振り絞るようにして声を出した。
「どこに、いるの」
男はふるふると首を左右に振る。
「コロシアムに来たのは半月ほど前だ。色々と探し物があるらしい」
「探し物?」
「ああ。探し物と、探し人と」
詳しい事情は知らないが、と男は頬を掻いた。
「何でもいいから知っている事を教えろと言われたので、教えてやったんだ」
皇帝に二度話しかけろ。
帝国の鎧を纏った男は、とっておきの情報だと言って、笑う。
「意味は分からんが、ガストラ皇帝が秘宝を隠した場所のヒントらしい」
「秘宝」
その単語が、セリスの脳内をぐるぐると巡った。探し物――秘宝。一年前、彼が語った言葉を思い出す。
『魂を呼び戻すと言う、幻の秘宝』
探している。彼は、今も、まだ。けれど、今は、それよりも。
(生きて、いるのね)
いま、重要なことはそれだけ。――それだけだ。
視界が滲み、セリスは顔を両手で覆った。全身が戦慄く。生きていた。生きて、今もなお、どこかにいる。
一度は見失った光が、目の前に溢れたような気持ちだった。どこにあるのかも知れなかった路が、急に視界に開けて行く。
ぐっと唇を噛んで、セリスは顔を拭った。――俯いている暇はない。
「ありがとう」
男への礼もそこそこに、セリスは踵を返して駆け出した。気にするな、と背後で男が笑う気配がする。
「武運を祈るよ。――セリス将軍」
それは聞き間違いだったか、それとも。
かけられた声、呼ばれた名を確かめるよりも先に、やらなければならない事がある。
「セッツァー! 船を出して!」
コロシアムに双子を置き去りにして、ファルコンへと駆け込む。のんびりと長椅子で休んでいたセッツァーを叩き起こし、セリスは叫び声を上げた。
「どうした、そんなに焦って」
「いいから早く」
困惑する彼に無理矢理舵を取らせて、船は空高く飛び上がる。コロシアムに置き去りにして来たエドガーたちのことも気にかかったが、彼らを呼び戻す暇すら惜しい。
急に船が発進したことに驚いたのか、船室にいたはずのカイエンが、ひょこりと甲板に顔を見せた。彼は不思議そうに眉を寄せて、セリスとセッツァーを順に見遣る。
「どこに行くつもりでゴザルか?」
問われてセリスは目を閉じた。先ほどの男の声が耳の中に蘇る。
皇帝に二度話しかけろ。
……皇帝。
その言葉で思い出す場所は一つだ。先だって、セリスは一年ぶりに皇帝と再会した。額の中からこちらを見返していた、あの姿――
「ジドールへ」
短く告げると、セッツァーが船首がぐるりと巡らせた。この場所からならすぐに辿り着くだろう。あの街、あの家、――飾られた絵の中に、皇帝はいる。
そこで何がわかるとも知れなかったが、少なくとも何かしら手がかりはあるはずだ。奇妙な確信がセリスにはあった。
ファルコンにセッツァーを残し、カイエンと二人でジドールの市街へと入る。なぜ急にジドールへ来ようとしたのか、ろくな説明を得られないまま、それでもカイエンは黙ってセリスの後について来た。
街を抜け、人ごみを抜けて、最も北に位置する大きな屋敷へと向かう。人気のない邸内は、以前訪れたときと同じように、どこか不気味に静まり返っていた。
館には主の趣味だとかで、邸内に入ってすぐ、まるで美術館さながらのギャラリーが設えてあった。絵の善し悪しも、ここに飾られているものの金銭的な価値も、セリスには無論わからない。だから以前訪れたとき、この空間には全く何の意味も感じられなかった。
だが、今は違う。意味は、あった。
セリスはひとつの絵の前で立ち止った。途端に、隣のカイエンが露骨なほどに顔を顰める。
「この絵が、どうかしたでござるか」
その反応も、ある種当然のものだったかもしれない。カイエンは妻子を、主を、故国を帝国の手に寄って失っている。その一件に直接的に関わったのはケフカだが、帝国を統べていたこの男に責任がないとは言えないはずだ。無論、今でも到底許せる相手ではないだろう。
セリスとしても、この男に思う所がないわけではない。複雑に入組んだ感情は、けれども総じて言えば憎しみに似ていた。
白いひげを蓄えた、皺に塗れた男の顔。
かつて大帝国を統べていたガストラは、すでにこの世には存在しない。けれども彼は今絵の中に在って、生きている頃そのままの姿で、セリス達を見返している。
静かな眼差しを受けながら、セリスは深く息を吐く。
手がかりがあるとすれば、この場所だ。目を細め、絵を観察する。キャンバスに触れ、おかしな所がないか確かめた。――異常はない。普通の、絵だ。
諦めて額に手を伸ばす。やはり普通の額縁だ。それでも注意深く調べていると、額に掘られたレリーフの一部が、ごとりと音を立てて外れた。
「これは……」
カイエンが声を上げる。
一見してわからないよう細工されていたが、額に刻まれた模様の一部が外れて、小さな空洞が設けられていた。中には一片の紙切れ。
心臓の音が煩い。逸る心を抑えて、セリスとカイエンはその紙片に目を走らせた。
じわり、視界が滲む。
まだ確証が得られたわけではない。手がかりが在ったとして、その先に彼がいるという保証はないのだ。会えると決まったわけじゃない。今は無事だとして、これから先も無事だと言う保証があるわけでもない。
それでも、道は見えた。
「まさか、あなたから道が開けるなんてね」
紙切れを握り潰して、セリスは顔を上げた。
かつてあれほど憎んだ老人だけが、彼へと繋がり得る道を示してくれた。なんとも言えない想いがこみ上げて、セリスの頬を一層濡らした。
「本当に、不思議な事だらけ」
キャンバスに額をつけて、セリスは固く目を閉じた。ぽたぽたと涙の粒が落ちる。
その頬を拭ったのは、ごつごつとした武人の手だ。いつだったか触れた『彼』の手とは違う。
――違うものに触れるたび、彼の感覚を忘れて行くような気がしていた。例えば誰かの手に触れて、例えば誰かの声を聞いて、その都度彼の指の温度や、声の優しさを一つずつ忘れてしまうような。
けれど、今は違う。はっきりと、思い出す事が出来る。あの帝国兵が言った、己に似ているというあの瞳の強い色も。
はっきりと想い描くことが出来た。だから、目指す事も出来る――
セリスは顔を上げた。下を向いている暇は、ない。前にしか道はない。そうして、かつて皇帝と呼ばれていた男の肖像に背を向ける。
「……行くでゴザルか」
カイエンの言葉にひとつ頷いて、セリスは手の中の紙切れを破り捨てた。
やまがほしがたにならぶところ。――そこに、彼はいる。
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2010.05.18.up.