花
最近、世界は随分と美しさを取り戻してきたと思う。
断崖に立つロックは、眼下に広がる海を見下ろして、そんな事を考えた。
――戦いが終わったあの日から、半年ほど。ロックは一日毎に違う場所を訪れては、世界中隅々まで巡り歩いた。
時には徒歩でモンスターとの戦いに明け暮れ、時にはチョコボで軽快に街と街とを行き来し、舟にも、それから飛空挺にも乗った。
その時毎に違う景色を見て、違う人に会った。新しい場所にたどり着く度、見える世界は少しずつ明るくなっていく。
往く先もなく、帰る場所も定まらない旅だったが、不思議と不安を感じなかったのは、その変わりゆく世界のせいだったのかもしれない。
野も空も風も、徐々にかつての美しさを取り戻していく。目的もなく目指す場所もなく、ただそれらを見つめるだけの、旅。
思えば、こんな風に旅をした事はあまりなかったかもしれなかった。ふと浮かんだ考えに、ロックは苦笑する。
彼は幼い頃から、いつも飢えているかのように何かを求め続けてきた。時には隠された宝を、時には秘められた謎を、そしてある時には失ったものを取り戻す為に、彼は世界中を捜し、渡り歩く。ロックが進む道の先には、いつでも捜し求める何かがあり続けていた。
だが今は、それがない。
彼は目を細めて遥か下方にある水面を見つめる。
本当に、綺麗になった。ここからでは見えないが、近くに降りれば魚が跳ねるのも見る事が出来るだろう。
澄んだ海の青と、その合間に波立つ泡の白。こんな色を見られるようになったのは、ごく最近の事だ。少し前まで海は赤く錆色に染まり、濁った水からは生命の気配が消え、人や動物の死屍が流れ着かない場所はなかったというのに。
その事を思い出して、ロックは笑う。今度は、心から素直に微笑みを浮かべた。
――求めるもののない旅。こんな風に歩く事が出来るとは、ロック自身も思っていなかった。実際、以前の彼では出来ない事だっただろう。
では、なぜ今、それが出来るのか。
理由の一つは、確かにこの変わりゆく世界の為だったのかもしれない。希望に満ちた世界を行く事、そこで再生していくものたちを見る事は、秘められた至宝を探し出した時と同じような興奮と歓喜を彼に与えた。
だが、それだけではないことを、彼は知っている。理由は、もうひとつあった。
ふと、ロックは近づく気配に気付き、振り返った。背後から響いてきたのは、軽快な割に重さを感じさせる足音。しかもひとつではなく、ふたつ聴こえる。その音には馴染みがあった。チョコボの奔る足音だ。
振り向きざま、軽く右手を振りながらロックは声を上げた。
「ご苦労さん!」
その声に答えるように、チョコボが一声鳴いた。嬉しそうに飛び跳ねた黄色の毛並みの向うに、更に明るい金の髪が揺れているのが見える。白い手が伸びて、ロックに向けて振られた。
そのまま速度を落とさずにロックの傍らに来たチョコボは、彼の周囲を一度ぐるりと回ってから停止した。先を走っていた方のチョコボから、ひとりの女性が飛び降りて来る。彼の同行者であり、そしておそらくはロックの『もう一つの理由』である女性、――セリスだった。
「幾らだった?」
ロックは軽々と大地に降り立つ彼女に向けて問いかける。風で乱れた髪を一度かき上げながら、セリスが答えた。
「二頭で300ギル。おまけしてくれたみたい」
たったそれだけの事を、彼女は嬉しそうに語った。つられてロックも破顔する。
「あのチョコボ屋、女には甘いからな。お前に行ってもらって正解だったよ」
肩をすくめるロック。セリスはそれには何も言わず、ただ可笑しそうにクスクスと笑った。
「――それじゃあ、行くか」
ロックは言いながら、チョコボに近づき、その首を軽く撫でる。振り返って見やると、彼女は大きく頷いてみせた。
「ええ!」
どこに、とは訊かれなかったし、ロックも特に伝えようとは思っていなかった。一応、訪ねられた時の答えは用意していたが、彼女は特にこだわっていないようだ。今更、わざわざ訊く必要もない、と思っているのかもしれない。
そう、向かう場所はどこでもいいのだ。少なくともロックはそう思っている。
どこにでも行ける。ただまっすぐに走っていけば、どこかには辿り着く。そしてそのどこかが、彼らの目的地になる。それは多分、セリスも同じように感じているのだろう。だから、どこでもいい。
(強いて言うなら……)
チョコボに飛び乗って、彼は瞳を閉じる。一度深く息を吸った。用意していた答えを、彼女にではなく自分に言い聞かせるように、心中で呟く。
(風の吹く方向へ、――かな)
そのあまりにも陳腐な言い回しに、自分のことながら可笑しさに苦笑が漏れた。彼は目を明け、眼前に広がる青空と緑の茂る草原を見つめる。
次はどこにいこう。何を見よう。
秘められた古代の財宝の地図を見つけた時のような、高揚感。胸の底からわき上がる感情に、彼は口の端を上げた。
チョコボの脇腹を軽く蹴り上げれば、彼の意のままにチョコボが走り出す。後方から、それに着いて来るもう一頭の足音が聴こえた。
また、旅が始まる。
そうしてしばし平原を疾走していると、ふとセリスが何事かを叫ぶのが聴こえた。
「あ? 何!?」
耳元ではごうごうと風が鳴っている。彼女の言葉は全く聞き取れなかった。仕方なく振り返ると、すぐ後ろを走っていたはずのセリスとそのチョコボがいない。見れば、かなり後方で立ち止まっているのが見えた。
「どうした!?」
声を上げて問いかけながら、ロックは手綱を引き、チョコボを止めた。そのまま反転して、何かを熱心に見つめている様子のセリスに近づいて行く。
「なんだよ、急に止まって……なんかあったか?」
傍らに寄って来たロックの顔を、セリスは一度じっと見つめた。呆然としている様子の彼女に首を傾げていると、セリスが腕を動かした。
「あれ、見て」
そう言って、セリスはチョコボの足下を指し示した。
ロックは彼女の指先を辿る。そこには青々と茂る草に混じって、紫色の小さな点が所々に散らばっている。彼は思わずチョコボから身を乗り出し、目をこらした。辺り一面に散りばめられたその色は、紛れもなく――
「……花、だ」
驚きのあまり、呻きに似た呟きを洩らすロック。世界が崩壊してから久しく見る事がなかった、それは花の色だった。
呟くロックの横で、セリスがチョコボから飛び降りる。その場にかがみ込む彼女に倣うように、ロックもチョコボから降りた。柔らかい草原の感触が、靴を通して伝わって来る。
ロックは上体を屈めて、目を凝らした。
転々と大地に刻まれた、明るい紫色の光。本当に久しく見る事の出来たその光景に、彼は目を輝かせた。――こうして花を見たのは何年ぶりだろう。
「……きれいね」
ロックの傍らで、愛おしげに小花に触れながら、セリスがぽつりと呟いた。
「そうだな」
世界がこうして崩壊する前は、花なんて見慣れたものだと思っていた。今更見ても、感動があるはずもない、と。
だが、久しぶりに見るこの色は、本当に本当に綺麗だと、ロックにも思える。
名前も知らない小さな花。かつての平穏な世界では、存在に気付く事もなく通り過ぎてしまっただろう、ささやかな花。
特別艶やかという訳ではない。特別素晴らしい色という訳でもない。なのに、何故だかとても綺麗に見えて、涙が出そうなほどだった。
ロックは深く息を吐く。セリスに微笑んで、呟いた。
「――もう心配なさそうだ」
それを聞いて、彼女は振り向いて嬉しそうに笑ってみせる。セリスがこんなに明るい表情を見たのは、久しぶりの事だった。
「そうね。これから、きっと世界のどこででも咲くようになるわ」
彼は深く頷く。セリスの言う通りだ。もう心配いらない、世界は昔のような強さを取り戻しつつある。
「……ねえ、ロック」
と、その時セリスがおずおずと口を開いた。珍しくなにかを言い淀むような様子の彼女に、ロックは疑問の視線を投げ掛ける。彼女はゆっくりと一言一言確かめるようにしながら、あるひとつの意思を言葉にした。
「行きたい所があるんだけど……」
行きたい所。
セリスのその言葉を受けて、ロックはチョコボの首を先ほどの真逆の方に向ける。
目的のない旅だったが、今、セリスのその言葉でひとつの目標が生まれた。その事が、不思議とロックの心を高揚させる。
――思えば、今までセリスは自発的にどこかに向かおうとした事はなかった。彼女自身にこれといった宛てがある訳でもなかっただろうから、同じく宛てもなく彷徨うロックに付き合ってきた、という印象が強い。行き先についてわざわざ聞く事がなければ、これと言った意思を示した事もなかった気がする。
そのセリスが、今になって向かおうとする場所。それがどこなのか、ロックには当初見当もつかなかった。だが、セリスの示した行き先を聞いて、成る程と得心する。
世界中をくまなく回った気で居たが、そういえば敢えて外していた場所が一カ所あった。それはセリスの為でもあったが、単純に行くこと自体が困難な場所だったからという理由でもある。どちらにせよ、その場所の話は聞いていたが、ロックが自分の足でそこに降り立った事はなかった。
――……花が、咲いた。世界は蘇る。そしてセリスが、この旅において初めて明確な意志を示した。
ならば多分、今がちょうど行くべき時期なのだろう。ロックは笑った。
そう、また、旅が始まるのだ。
今度はどこへ? ロックは心中で自問する。答えは明確だった。
まずは、南へ。――海へ。
↑ →
2005.08.02.up.