いとしい人

 ロックがセリスの手を引いて小舟から降りたのは、真っ白な砂で埋め尽くされた浜だった。打ち寄せる青く澄んだ水が、彼の靴を濡らす。
「ここか?」
 白く波立つ海。切り立った崖。砂浜から伸びる道。その向こうには、緑の草地が見える。そして、一軒の家。
 ロックの問いかけに、セリスは笑んで頷く。
「ええ。――来るのは本当に久しぶり」
 答えるその表情は、どこか虚ろだった。崖の上を振仰ぐセリスを、ロックは落ち着かない気分で見つめる。不安定な陰りを落とし、それでも口の端を上げてみせた彼女に、なんと言葉をかけたものか、わからなかった。
 やがて、セリスは何かを断ち切るようにやや足早に歩き始める。先行するセリスの足跡が砂浜に点々と付けられていくのを、彼はぼんやりと見つめた。自分よりも少し短い、だがそれほどの違いはない彼女の歩幅。それに合わせて足を進め、後を追う。
 砂の地面はすぐに終わり、彼の靴は草地を踏んだ。そうなってもロックは顔を上げず、尚もセリスの残す跡をなぞって歩く。視界の端で、先日見た薄紫の花とは違う、似たような大きさの白い花が大地の緑を彩っているのが映る。
 その時、気付いた。セリスは何気なく進んでいるように見えたが、その実花々を避けて歩いていたらしい。小さな小さな花だったが、彼女の靴の跡はそれらから僅かにそれて残されていた。
 ロックは密かに苦笑を漏らす。後ろを振り返れば、自分の靴跡が踏み荒らした場所に、白い花が見えた。――やってしまったらしい。
「ごめん」
「え?」
 突然ロックが発した声に、セリスが弾かれたように振り返る。ロックは顔を上げると、肩をすくめて苦笑する。
「花。ここでも咲いてたんだな。……気付かなかったよ」
 踏んじゃった、とおどけてみせれば、それに応えてセリスが顔を綻ばせた。
「そうみたいね」
 その顔からは、先ほどの複雑な色は消えていた。ここに来てから初めて穏やかな表情を見せた事に、ロックはひそかに安堵の息を吐く。
 ――この島の事は、そこであった出来事を含め、セリスから聞かされていた。一年間の眠り、シドと暮らした短い日々、祖父と呼び慕う者とのささやかな幸福。やがて倒れた彼を看病し、そして、
(死んでしまった)
 ロックは顔にも口にも出さず、ひとり静かにその事実を思い返した。
 その事を聞いたのは、セリス達と再会し、仲間たちと瓦礫の塔へ向かい、そして全てが終わった後、二人で旅を始めて間もなくの事だった。訥々と語ったセリスは涙こそ流さなかったが、悲哀に曇った表情をロックはよく憶えている。それは彼女の対面した悲しみを慮るに、十分すぎるほど痛々しいものだった。
 目の前で愛する者を亡くす痛みは、ロックにも身に覚えがある。今にも震え出しそうな肩に軽く手を追いてやると、セリスは安心したように深く息を吐いた。
 彼女は過去を語り終え、最後にこう言っていた。――まだ一度も、あの島には戻っていないのだと。
 それ故に、ロックは長く彼女がこの島に戻る事を危惧していた。この類いの記憶と向き合うには時間がいる。シドのためと言うなら戻る事を進めるべきだったかもしれないが、セリスのためと言うなら、もう少し時間を置くのもいいように思えたのだ。
 だが思っていたよりも平静な様子のセリスを見て、今ではそれが杞憂であった事を知る。そんなロックの心中を知ってか知らずか、彼女は嬉しそうに言葉を続けた。
「この分なら、次の春には世界中で花が咲くわね」
 セリスにしては珍しく楽観的な物言いに、ロックも思わず破顔する。
「きっとそうなるさ」
 華やかな笑顔は、この世界にはこの上なく似合う。心の中で呟いて、彼は再び歩き出したセリスに続いた。今度は、足下の小さな花に気を配って。

 島に建つ小さな小屋に寄るのかと思ったが、彼女はそこを素通りして、先へ進んでいった。どこへ行くのか聞こうとしたが、止める。
 この小さな島の地理は大体わかった。島を囲む砂浜と入り江、そこから伸びる道、島の中央の小屋と平坦な草地、それを除けば見るべき所は場所は一箇所しか残っていない。
 案の定、セリスはロックの予想通りの方向へ向かった。――島の西端にある、断崖だ。
 かなりの高さがある崖の際を、彼女は変わらぬ足取りで進んでいく。それを追いながら、彼はふと眼下を見遣る。遥か下方に打ち寄せ砕ける波の白さが、妙に鮮やかに映る。ここから飛び降りたらどんな気持ちがするのだろうか。ふとそんな事を考え、彼は身を竦ませた。それは一流のトレジャーハンターたるロックにとっても、流石に想像するだけで恐ろしい。
 己が立つ場所が急に不安に思えて、ロックは視界を眼下の海から離し、一歩内側に寄った。
「あそこよ」
 その時セリスが振り返り、前方を指差した。彼女の差す方を見ると、崖の先端に地面が少し盛り上がった所があり、その上に貧相な石が載せられている。
 なんだ? そう口にしかけて、ロックはまた質問を止めた。ほんの少し考えてみれば、訊くまでもなく見当がつく。
「そうか」
 代わりに、ロックは短く特に意味のない返答をした。セリスに続いて崖の先端へと近づく。立てられた石の一歩手前で止まった彼女の隣に並んで、同じようにその小さな墓標を見下ろした。
「急いで作ったお墓だから、あんまり綺麗にしてあげられなかったの」
 セリスが殊の外明るい口調で言う。
「ちゃんとした石も見つからなくて」
「そうか」
 何と言ったものか悩んでいるうちに、またしても先ほどと同じ、無愛想な言葉しか出なかった。  そうしてしばし、ふたりの間に沈黙が降りる。無言で立ち尽くすセリスを見つめながら、ロックはふと思いついた事を呟く。
「――もう一度、話をしたかったよ」
 すると彼女はちらりと笑みを見せる。
「そうね。私も、会わせてあげたかった」
 その何気ない彼女の言が、ロックの心をちくりと刺した。
 セリスと再会するまでの一年を、無為に過ごしてきたつもりはない。それだけの時間を過ごし、成した事があるから、今のロックがある。彼自身その事を後悔した事は一度だってなかった。
 だが、もしその1年という時間を、彼女の為に使っていたとしたら。それを考えると、やはり少し心が疼く。もしそうしていたなら、今ロックが望み、同じようにセリスが望んでいる事を叶えられたかもしれない。その事を考えると、彼の心中に苦いものが広がった。
 ロックは以前、シドと一度だけ会った時の事を思い出す。
 娘のように可愛がってきた。そう語った彼は、少なくとも一研究者の顔ではなく、ひとりの人間としての感情を覗かせていたように思う。切迫した状況下、まともに言葉を交わす事さえ出来なかった、それだけがただ心に残った。
「会いたかった……」
 本当に、とロックは嘆息まじりに繰り返す。
 今、シドに言いたい事があった。本当なら言わなければならなかった事があるのに、それはもう二度とは届かない。伝えたかった感情は途切れ、ロックの中に蟠ったままだ。
 その時不意にセリスが動いた。ロックは半ば俯いていた顔を上げて、彼女を見遣る。一歩前に踏み出した彼女は跪くと、ここに来る間に摘み取った小花を墓石の前に添えた。
「まだこんなに小さいけど……花が咲くようになったのよ」
 そう言いながら愛おしげに小さな墓標に触れ、撫でる。生きた人間にそうするような仕草を、ロックは息を呑んで見守った。
「おじいちゃん」
 蚊の鳴くような微かな声が、海風に流され消えていく。そう呼んでいたのか。そんな事を何気なく考えながら、ロックは再び深く頭を垂れる。もし会えたのならば伝えたかった思いをひたすらに念じ、祈った。
「次に来るときは、きっともっと大きなお花を持ってきてあげるね」
 シドは花が好きだった。随分前に、セリスがそう言っていた事を思い出す。  もっと大きな花を。たくさんの花を。――そうできるといい。きっとそうしよう。
 セリスが何よりも誰よりも慈しんだ祖父に、伝えておきたかったたくさんの想いを添えて。そう黙想しながら、ロックは静かに眼を閉じた。


    


2005.11.15.up