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歌姫
気付けば、日が暮れかけていた。
声をかける事も出来ずにセリスを待っていたロックは、西に深く沈み始めた夕日に眼を細め、息を吐く。随分長い事、こうして墓石の前に佇んでいたようだ。微動だにもしていなかったせいか、体が微かに痺れるような感覚がある。
セリスは相変わらず動こうとはしない。もう少し待っていてやりたかったが、どこかの街へ戻るにせよ、このまま島にとどまるにせよ、そろそろ動き始めなければ日が落ちてしまう。
「セリス」
まずは控えめに、小さな声で呼びかけてみる。返答はない。もう一度、先ほどよりも大きな声をかけようとした所で、彼女が振り向いた。ロックに向けられた顔は、想像していたものよりも、穏やかなものである。
「ごめん。ずいぶん時間経っちゃってたのね」
浮かんだ微笑みは、すでにいつもの彼女のものだった。その事に安堵し、ロックは苦笑を返す。
「別に良いさ。急ぎの旅じゃない」
これまでずっと歩き続けてきた。止まる事があってもいいだろう。そう思いながら、ロックは天を振仰ぐ。でも、と溜め息まじりに呟いた。
「でもこの分じゃ、今夜はあの家に泊まるようだな」
「そうね」
セリスも同じように空を見る。二人で見上げた空は、すでに半ばまで赤く染まっていた。今から船を出すのは少々危険かもしれない。この辺りの海の夜は、荒れる。無理を出来ない事はないだろうが、危険を冒すほどの価値があるのかどうかと問われれば、微妙な所だ。
そうやってあれこれと思案している間に、セリスが立ち上がった。草で汚れた膝を叩きながら、言う。
「行きましょ。何もない家だけど、夜の海に出るよりはマシでしょ」
彼女にしては珍しい軽口に、ロックが思わず吹き出した。
半年以上も放置されてきた家の中には埃がつもり、薄汚れていた。簡単にとはいえ掃除をし、そのままになっていた生活用品を軽く整理して、冷えきった暖炉に火を入れる頃には、外はすっかり暗くなっていた。
荷物に入っていた携帯用の食料を軽く腹に入れて、ふたりはやや早い時間に眠りにつく。ロックの方はともかく、セリスは消耗しているように見えたからだ。
部屋にひとつのベッドに彼女を寝かせ、自分はソファに座り、毛布にくるまる。暖炉の火だけがゆらゆらと揺れる室内、すぐに規則的なセリスの寝息が聴こえてきた。
やはり、疲れているのだろう。当然の事だった。
彼はベッドに横たわるセリスに眼を向け、子どものように丸まって眠るその姿に笑みを洩らす。ロックに背を向けた格好だったが、呼吸に合わせて毛布が微かに揺れるのは見えた。
それを何気なく眺め、眠気が襲って来るのを待ちながら、ロックは何とはなしに己の記憶を辿る。
幼い頃、故郷の村で過ごした日々。当時は毎日が冒険の連続だった。
近くの野山に出かけては、日が落ちるまで友人達と駆け回った。モンスターの骨や虫の抜け殻、美しい花、それから誰かが落として行ったアイテムの瓶、そんな他愛のないものを見つけては、大げさに一喜一憂していたあの日。
泥だらけになって家に帰れば、母親が顔をしかめ、父はおおらかに笑って迎えてくれた。出来たてのシチューを呆れるほどにたくさんおかわりして、その日の戦利品を家族に自慢し、疲れ果ててベッドに入る。眠りにつく前に、祖母に物語をせがむのも毎日の事だ。
草原を渡る風と、汗と、家から立ち上る湯気の匂いに彩られた時間。それら全ては遠い過去のものだったが、思い返すたびにまるで昨日の事のように鮮明に蘇り、ほんの少しのむず痒さを伴ってロックの心を暖める。
だが、ふと思いついた考えに、彼の胸中に苦いものが広がる。
――彼女は、どうだったのだろうか。
セリスの生い立ちについて、ロックはほとんど聞いた事はない。また、彼女自身も殊更多くを語ろうとはしなかった。帝国の冷たい壁の中、セリスがどのような幼少時代を歩んできたのかは知る由もない。
聞いた事があるのは、たったひとつだけ。
……「家族の記憶はない」。
それは、ロックとて薄々感づいていた事だった。折々の会話の中からの雰囲気や、彼女のこれまでの生き方を考慮すれば、想像がつく。彼女の生きてきた時間は、ロックのように家族や友人に囲まれたものではない。ロックはその事だけを知り、またそれが全てだった。
そんなセリスが先ほど発した言葉が、彼の胸に重く残っている。
「おじいちゃん」
深い愛情がこめられた単語。肉親に対する呼び名。愛おしげに呟かれたその音には、彼女のような人生を送らざるを得なかったものにとって、どれほどの意味が託されていただろう。
ロックは、既に亡き祖母の事を思う。
ばあちゃん、ばあちゃん。
彼はよくそう言って、彼女のスカートの裾を引っぱった。足下にちょろちょろとまとわりついて、困らせた事は数えきれない。
そして彼は、祖母だけではなく、両親の事も思う。思い出すのは笑った顔ばかりだ。掛け値無しの愛情を注いでくれた彼ら。血のつながりと言う確かな糸で結ばれた肉親。
そんな当たり前の事実の重みに、ロックは耐えきれずかぶりを振る。
おじいちゃん。
岬で聞いた彼女の声が、頭から離れなかった。幾度も彼の脳裏に蘇る。
ロックはそれを振り払おうと、半ば無意識のうちに鼻歌を歌った。虚ろな室内に響き渡る、やや調子の外れたメロディ。少しもの悲しくて、それでいて優しい。己が発した音を耳にして、その時ようやくロックは気付く。それは、祖母が昔から時折口ずさんでいた歌だった。
彼は今まで思い返した事もない、すっかり忘れていた歌を歌っていた事、そしてなによりもそれを憶えていた事に驚く。その瞬間、
「その歌、何?」
声をかけられてロックは更に仰天した。思わず体が跳ね上がり、その拍子に被っていた毛布を床に落としてしまう。
眠っていると思っていた――あるいは、今の歌声で起こしてしまったのかもしれない――セリスが、上体を起こしながら問いかけてきた。彼は取り落とした毛布を拾いつつ、照れ隠しで笑った。
「起きてたのか」
「聞いた事あるわ」
ロックの言葉には応えず、セリスがぼんやりと呟く。彼は軽く頭を掻いた。
「よくわかるな」
自分自身の歌が、決して誉められたものではない事は知っている。調子外れの鼻歌から、よくメロディを聞き取れたな、と妙に感心してしまった。それを汲み取ったか、セリスが苦い笑みを浮かべる。その表情のまま、更に尋ねてきた。
「何の歌なの?」
これに、ロックは天を仰ぐ。わずかな間、なんと答えたものか悩んだが、ここは素直な答えを告げた。
「……知らないんだ」
セリスが首を傾げる。
「知らないのに、歌えるの」
ロックは頷いてみせた。そして、被り直した布団の中で座り直しながら、続ける。
「ああ。ばあちゃんがよく歌ってたんだ。……思い出してさ」
「おばあさん?」
半ば予想していた事だったが、その単語にセリスが食らい付く。ロックは破顔した。家族の話は、今まであまりした事がない。仲間たちにも、もちろんセリスにも、だ。だから、興味を持たれるのは当然の事だったかもしれない。
話さない事に理由はなかった。深い思惑も、拘泥もない。ただ、語る機会がなかったというだけの事だ。ロックはこだわった様子も無く、続ける。
「うん。俺、おばあちゃんっ子だったから」
「そうなんだ」
そう呟いたセリスの表情は、どこか陰りがあるように見えた。その裏にあるであろう想いに気がついて、ロックは口を閉ざす。――別に、語る必要のない事だ。これまでもそうだったのだから問題はない。特に、今は。
ひとりそう納得して、彼はそれ以上、家族の事について何一つ話そうとはしなかった。
そしてまた、薄暗い室内に静寂が訪れる。
ロックはなんとなくセリスを見つめ続けていた。見守っていたという方が、彼の心情に照らし合わせて、正しい表現かもしれない。セリスもまた、ロックの方向を見ている。眠る気配はない。闇の中で、彼女の瞳だけがわずかな月光を反射して、ひかる。
その時ロックの脳裏に、不意に蘇る記憶があった。
「……多分、レクイエムだと思う」
思い出した事柄がそのまま、深い考えもなしに口をついて出る。セリスが動いた。
「レクイエム?」
彼女が数度、瞬く。言ってからロックは後悔した。あまり、状況に適した話題ではなかったかもしれない。
だが同時にこうも思う。あるいはこの上なく、今、彼女に伝えるべき事柄だったのかもしれない、と。どちらが正しいのかはわからなかった。
わからなかったから、ロックは敢えて話を切らず、先ほど終わったはずの家族の話を続ける事にした。――ひとことだけ。
「自分が死んだら、歌ってくれって言われたんだ」
セリスが息を詰めたのがわかった。それを感じながら、ロックは静かに長く息を吐く。幼い頃の記憶を、埃の積もった奥深い引き出しから引っぱり出した。
病床で、土気色の顔をして横たわっていた祖母。病身となってからは長い間合う事を許されず、久々に面会したロックに、彼女はたったひとつだけ望んだ。
何もしなくていい。祈りもいらないから、一度歌を歌って、それで忘れてくれ。そう言われた。
そしてロックはあの歌を聴くのだ。祖母が昔から時折口ずさんでいた、少しもの悲しくて、それでいて優しい旋律。幼いあの日、彼は初めてその歌の意味を悟った。逝ってしまった者への祈りの歌なのだと。レクイエム、という名称を知ったのは、それよりも更に数年後、祖母が死んだ後の事だ。
思えば結局、祖母の忘れてくれ、という部分の望みを叶える事は出来なかった。ロックは今でもなお、彼女の顔を思い出す。
だが歌ってくれ、という部分については、叶えてあげられたのではないかと思っていた。ロックは何度も何度も、祖母の墓の前で歌ったものだ。それこそ、声が枯れて、日が暮れるまで。ひたすらに祖母の安寧を祈りながら。
脳裏に蘇る、窓辺で遠くを見つめて歌を口ずさむ祖母。何を思っていたかは今では知る由もない。最後に歌って欲しいと望んだ、その思いも、もはやあまりに遠い過去のものだった。
「そう……」
セリスが呻くように、短く答えた。彼女は何を思っているだろう、とロックは想像する。
たぶん、自分と大差ないだろう。
そう結論づけて、ロックは眼を閉じる。そのまま何も言葉を交わす事も無く、かといって眠りに落ちる事もないまま、彼はやがて窓から差し込む朝日を迎えた。
「行くぞ」
「ええ……」
ロックが手を差し伸べながらそう促すと、セリスは頷き、その手を取って船に乗り込んだ。また、宛てのない放浪が始まる。目的地は、やはり定まっていなかった。それで構わない。
果てしなく広がる海へと船を漕ぎ出す。四方は水平線だけが広がり、陸地は見えない。ロックは注意深く舵を取りながら、とりあえずアルブルグの周辺を目指す。
そして、一時間ほど進んだろうか。それまで真っ直ぐに前を見据えていたセリスが、突然振り返った。ロックもつられて背後を見遣る。先ほどまで立っていたあの小さな島は、すでに随分と遠く、小さく見えている。
ロックは昨日墓の前でそうしたように、ほんの少し頭を垂れた。祈るロックの耳に、聞き覚えのある歌が届く。
波の音に重なる彼女の声。それはロックのものとは違い、全く踏み外す事なく正確な旋律を辿る。
(きれいな歌だ)
かつて、祖母が歌っていた時の事を思い出す。彼女は黄昏時の日差しを受けて、まどろむように半ば眼を閉じ、細い声で口ずさんでいた。それを聞いた時も、彼は思ったものだ。きれいな歌だと。
あの時、この歌の意味など知らなかった。今、この歌の意味を知ってもなお、一層美しいと思う。
船の舳先に散らされた波が、セリスの顔にかかった。一瞬途切れる鎮魂歌。しかし、彼女は飛沫を拭うと、再び微笑んで歌い続ける。
万感の想いを込めた旋律が、海を渡る。ロックは僅かに眼を細め、もうわずかにしか見えない孤島と、その向こうに遥か広がる水平線を望んだ。
そしてまた旅が始まる。今度は北へ――風の吹くままに。
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2005.11.24.up