眠り

 それは温かい水の中に居るような感覚だった。
 優しい腕で抱かれるように、柔らかな布で包み込まれるように、心健やかに安心出来る場所。幼い少女はそこで丸まって、とろとろとまどろんでいる。
 瞼は固く閉じていたが、外はとても明るい事を、彼女は感覚的に察知する。音は何も聴こえなかった。辺りは静寂に包まれ、彼女自身の心音と息づかいだけが響く。
 体は温かかったが、何故か指先はひどく冷たかった。動かして温めようにも、冷えきってかじかんだ身体は、彼女の思うように動いてはくれなかった。
 だが、それならばそれで、構わない。彼女はひとり得心する。周囲はとても温かく、穏やかだった。身体は動かなくても良かった。むしろ動かない方がいい。
 このまま、眠っていたい。
 彼女がそう思った時だった。ふと、彼女の心臓がひときわ強く鼓動する。その音に彼女は驚き、驚いた事で更に大きく心臓が鳴る。
(まだ、めざめたくないのに。)
 彼女は心中で呟く。先ほどよりもいっそう強く身体を丸めて、再び眠りに落ちようと、いっそう固く目をつむる。先ほどから大きく鳴り続けている鼓動から意識を離そうとしたが、そうすればするほど、彼女の耳は更に強くその音を意識し、捕らえた。
(まだここにいたいのに。)
 半ば祈るような心地で、願う。だが指先の冷えはすでに全身に伝わって、辺りから熱は過ぎ去っている。先刻までの安息もとうに消えていた。
(まだ――)
 祈りは届かない。周囲が急激に暗くなり、闇が包む。彼女はまだ目を瞑ったままだったが、それがわかった。

「セリス」
 呼ばれて、彼女は弾かれたように身体を震わせると、ゆっくりと目を開けた。生まれてから今まで意識した事もなかった瞼の重みが、今日はひどくセリスを苦しめる。時間をかけて、ようやく彼女はその重圧をはね除けた。
 視界には、白い大きな点だけがあった。眩しい。少しの間を置いて、セリスはそれが何かを悟る。彼女の頭上に輝くライトだ。よくよく目を凝らせば、徐々にその向こうにある白い天井、そこに出来た小さな染みも見えてきた。
 セリスは心中で頷く。視界には問題がないらしい。そして己の記憶を探り、置かれている状況を瞬時に把握した。
 場所は魔導研究所内のラボ、そこに寝かされているセリス。これまでに何があったのか、そしてこれからどうなるのか、彼女は全て理解した。理解できるだけの知識は、すでに与えられていた。それを、ゆっくりと時間をかけて、思い出す。
「見えているか」
 それを待っていたかのように、丁度いい頃合いで横から声が掛けられる。年配の男の声だった。誰のものか、セリスにはわからない。聞き覚えはあったが、馴染みがあるものでもなかった。
 ともあれ、質問をされたからには、答えなければなるまい。そう教えられている。セリスは口を――やはり先ほどの瞼同様、重たく強ばった唇を――ゆっくりと感触を確かめながら、動かす。
「……は、い」
 喉が乾いて、舌が上顎に張り付いていた。だが、声は出る。多少嗄れていたが、それでもその声は間違いなく自分のものだと、セリスははっきりと確認した。
 と、突然視界を黒い影が過る。大きな節くれ立った手だった。それは数度、彼女の上を行き来して、消えた。
「反応はあるな。わかるか?」
 当然だ。そう答えようとして、舌がもつれて言葉にならなかった。セリスは一度深呼吸してから、ゆっくりと、喋る。
「はい」
 呼吸するたびに、喉が痛む。水がほしい、と言おうとしたが、それは突然沸き起こった喝采に遮られた。
 大勢の人間が上げる歓喜の声を、セリスは聞く。聞きながら、しかしそれと意識は遠く、セリスはただひとつの事を考えていた。
(もう少し、眠っていられたらよかったのに)


 開けて翌日、魔導研究所は今までにないほど活気づき、浮ついた空気に包まれた。そして更に次の日には、研究者たちの手によってレポートが纏められる。
 ――魔導の力、その抽出方法と人体への注入、その成功症例について。
 膨大な人数の研究者たちが、膨大な量の情報をあます所なく記録していく。その間、セリスは休む間もなく彼らに付き合わされる事になった。
 運動能力のテストに始まり、精神や健康状態のチェックが行われ、身体の隅々までに損傷がないかどうかを調べられた。セリスは疲弊し、その度に、レポートが更にまた一枚と増えていく。
 自分のからだに起こった――いや、起こされた変化、それを慣らす為の方法について、セリスは知らない。しかしわからなくとも、彼女の中にはこれまで持たなかった力が、息づいている。その事をセリス自身はさほど実感出来ていなかったが、その周囲の状況の変化によって、否応なく認識させられた。
 過密で綿密な調査に付き合う事は、まだ子どもであるセリスにとっては苦痛だったが、それも致し方のない事なのだと彼女は理解させられている。なにしろ、これまでに成功例がない。以前にこの実験に参加させられた者は術後に発狂し、あるいは死亡し、手術が終わるよりも早く命を落とした者もいたと聞いている。唯一無事に生き残った男が居たが、彼もまた力を得る代わりに、人らしい感情の全てを失った。セリスは伝聞でだけでなく、実際に見て知っている。顔見知りの男だった。
 同じ実験を経て、セリスは今なお、生きているのだ。体調に変わった所もない。疲労と多少の違和感は感じたが、異常はなかった。研究者たちのテストに付き合わされる度、セリスはその事実を強く実感していく。
 同時に、彼女の中に疑念が生まれた。果たして本当に、自分の中にその『力』は息づいているのだろうかと。これほどまでに異常が感じられないのだ、やはり実験は失敗していたのではないのか。研究所員を歓喜させている力など、本当は身に付いていないのではないだろうか、と。
 しかし間もなく、それも懸念であったと分かる。既にその力を身に付けた男――生き残ったただ一人の、あの男だ――に教えられた通り、呪文のような言葉を唱えると、指先から凍えるような冷気の筋が迸った。それは魔導研究所の実験室の壁を瞬時に凍てつかせ、破壊した。分厚い金属で出来ていて、剣で思い切り斬りつけても、傷一つつかなかった壁だった。
 あまりのことに戦いたセリスの肩に手をかけ、男が耳元で囁く。
「おめでとう」
 セリスはすでに疲れ切っていた。実験を終えて二日。以来、まともに休息を取る暇も与えられてはいない。何人もの大人たちが彼女の元を訪れ、研究所のそこかしこに連れ出し、ありとあらゆる実験や検査に付き合わされた。
(もう やすませて)
 心の中で叫ぶように、セリスは思う。思うと同時に、意識が薄れた。
 身体が何かにつよく打ち付けられる。自分が床に倒れ込んだ為だと気付く間もなく、セリスは意識を手放した。



 そこは深い深い海の底に居るような感覚だった。
 ひどく、冷える。手足がかじかむ程冷たい水の中に独り取り残されて、セリスは身体を丸めて辛うじて耐えていた。氷の中に取り残されるというのは、きっとこういう感覚なのだろう、とそんな事を思う。
 薄く目を開けていても、光は見えなかった。どこまでも深い闇が広がっている。周囲から音は何も聴こえなかった。辺りは静寂に包まれ、彼女自身の心音と息づかいだけが響く。
 寒かったが、何故か身体はひどく熱くなっている。外気に触れた部分から冷えかけても、身体の中心から湧き出る熱と拮抗し、少しずつ温められていく。そのせいか、身体の先端がとてもむず痒かった。
 彼女は自分が眠っている事を、そのときようやく察する。以前に感じたものとは大分違ったが、それでもそこはかつての安らぎと同じ場所にあるのだと、気付いた。
 同時に、彼女は理解せざるを得なかった。変わったのは恐らくこの空間ではない。自分自身だと。
 かつて感じた温もり。安らかな眠り。それがただ懐かしく、セリスは祈るように呟く。
(帰りたい)
 瞬間、ふと、彼女の心臓がひときわ強く鼓動する。身体がひどく熱い。内側から発せられるその熱に、セリスの呼吸が荒くなった。喉が焼け付くように痛む。息が出来ない。
(それでも――)
 セリスは固く目を瞑る。灼熱に震える身体を無理に押さえつけ、身体を丸める。
(それでも、せめてここにいたい)
 願う。だが身体を激しく巡る熱は既に限界を超えて、息苦しさに胸が裂けそうに痛んだ。最初からこの場所に安息はなかったが、それでも、せめて。
(まだ……)
 祈りはやはり届かない。周囲が急激に明るくなり、眩しさに顔をしかめた。

「セリス」
 呼ぶ声に、セリスは観念して瞼を開ける。重さは感じなかった。あっさりと瞳は瞼の外の世界を捉え、その眩しさに彼女は顔を手で覆う。真っ白で、何も見えない。
「大丈夫か」
 先ほどと同じ、男の声。年配の男のものだった。それが誰かは知っている。聞き覚えがあった。セリスにとって、とても馴染み深い男のものだ。彼には、色々と良くしてもらった。
 だが今は彼の顔を見たくなかった。彼だけじゃない、誰の顔も見たくなかった。掌で覆った瞼を再び閉じると、セリスは何度も顔を横に振る。
「どこか痛むのか?」
 男が続いて問いかけて来る。セリスはまた首を振って、違う、と意思を伝えた。
 深く息を吐く音が聴こえる。困った顔をしているだろうか。わずかに興味を惹かれたが、それでも、彼女は視界を覆った手を離そうとはしなかった。
 ふと、セリスの頭に、男の手が置かれた。あまり大きくはない掌。今までにも何度か触れた事がある手だった。以前触った時はとても温かいと思ったが、今は何故か、冷たく思えた。
 そんな些細な事から自分自身の変化を思い知らされて、セリスは固く瞑った目の奥が熱くなっていくのを感じた。代わりに、心の奥が徐々に冷えていく。
 温度差に耐えきれず、セリスは俯いた。何かが彼女の掌に当たり、その部分の熱をわずかに和らげた。
「……泣いているのか」
 男が呟くのが聴こえる。頭の上に置かれた手が数度上下に行き来して、セリスの髪を梳いた。その手の冷たさに、また彼女の顔が熱くなる。
「ねむらせて」
 セリスは言った。男の溜め息が頭上に降る。冷えた吐息。
「もう少しでいいから」
「……わかった」
 懇願するセリスを、男はもう一度、撫でた。
「後でまた来るよ。……おやすみ、セリス」
 男の指先が彼女の髪を一筋攫って、離れる。彼が離れていくのを感じるのとほぼ同時、セリスは再び眠りに落ちた。
 再び訪れる冷たい闇。少女はそこで身体を丸めて、ただ眠りを貪った。
 独りで。


   


2006.03.13.up