リグレット

 夜は更け、町中からひとつ、またひとつと明かりが消える。家々が静まり始める刻限に、ロックはふらりと宿屋を出た。
 屋外は暗く、ひどく冷えていた。空はどんよりと曇って、月も星もない。闇に包まれた街は足下もまともに見えないほどだったが、彼は淀む事なく歩を進めていく。
 ――そうやって歩けるほどに、ここは慣れた場所だった。
 光に包まれて消えたティナを追い、大陸を越えて訪れたのは、ここコーリンゲンの村だ。彼女の痕跡が残されていたこの村と、ロックとはそれなりに深い繋がりがある。
 かつて彼がこの地に滞在していたのは、今から随分と昔の事だった。ロック自身は、あれから多くの出来事に遭い、嫌が応にも変化せざるを得なかった。だがこの穏やかな街は、年月を経てもさほど変わっていない。
 あの頃幾度も繰り返し歩いた路を、なぞる。見えない糸を辿るような心地で一歩一歩前に進めば、やがて暗闇の中にぼんやりと一軒の家が浮かんだ。明かりはない。住まうものはもういない。
 このコーリンゲンの北西に位置する小さな廃屋。そこにはかつて、彼の愛したひとが住んでいた。
 扉に手をかけると、驚くほどあっさりと開かれる。鍵もかかっていないのは、盗まれて困るようなものはすでに何一つ残されていないからだ。
 家主がいなくなってから、数年。打ち捨てられた室内は、それでも近所の者が掃除に入っているのだろう、辛うじて埃は払ってあるようだった。ほんの少し黴臭い匂いが鼻についたが、耐えられないほどではない。手入れはされているようだ。
 手近な椅子に腰を下ろして、深く息を吐く。どこにでもあるような木の椅子にさえ、思い出が残されていた。かつて彼はこの場所に座り、愛しい少女の顔を見上げたのだ――
 耐えきれずに、両手で顔を覆う。瞼の奥がずきずきと痛んだ。
 この家には、かつて、ロックの愛したひとが住んでいた。彼女と、彼女の家族。けれども彼らはもうどこにもいない。帝国の攻撃があったのは随分と昔の事。あまりに時が経ってしまったせいで、当時の爪痕は街のどこを見ても残されてはいない。
 だが、悲劇は確かに起きていたのだ。娘を庇った両親は銃弾に倒れ、その娘もまた、その短い生を終えた。いったい何人の村人が殺されたのか、ロックは知らない。知っているのは、その犠牲者の中に彼が慈しんだ少女が含まれていたと言う事だけ。
 守る事が出来なかったと言う、その事実だけ。
 一度座り込んでしまえば、再び立ち上がる事がひどく億劫だった。このままここで、すべてを終えてしまえたら。そんな考えすら浮かびかけて、慌てて頭を振る。おぞましい誘惑に絡めとられる前に、と、ロックは慌てて腰を浮かせた。
 人の気配が絶えて久しい室内を見渡す。なんの香りも残っていないはずなのに、あの頃の花の香り、オーブンから漂う芳しい香りが鼻の奥に蘇るような気がして。
 ロックは踵を返す。その家に留まる意味はない。ここには、もう、誰もいない。彼はそれを確かめる為に来たのだ。
 分かりきった事を、それでも何度も何度も、確かめるためだけに。


 来た道をそのまま素直に辿り、宿の明かりの下へと戻る。けれどもそのままベッドに戻る気には到底なれなくて、自然とロックの足はバーカウンターへと向かった。
 室内を煌煌と照らす灯りの中に、蟠る闇がふたつ。小首を傾げてよくよく見遣れば、その闇の正体はグラスを煽る黒装束の男と、その傍らに寄り添う黒い大型犬だった。
「お。あんた」
 確か、サウスフィガロで一度会った。あの時はろくに話もしなかったが、この男との縁はそれだけではない。
「シャドウだったよな。マッシュから話は聞いたよ」
 世話になったらしいな、と笑いかける。男はちらりとこちらに視線を向け、小さく嘆息したようだった。どうやら疎まれているようだ。静かに飲んでいた所を邪魔されたと感じているのかもしれない。
 そうと知りながら、席を外そうとしたシャドウを、ロックは引き止める。
「ま、付き合えよ。いいだろ?」
 マスターに適当に酒を頼み、彼の隣に腰を下ろしながら、その腕を軽く掴む。暗殺者である、ということも聞き及んでいたので、身体に触る瞬間には少しだけ緊張した。  けれども想像したような恐ろしい展開になることもなく、男は渋々と言った風情で席に戻った。傍らで立ち上がりかけていた犬も、主に倣って再び座り込む。
「いい犬だな」
 素直な感想を口に洩らすと、男の周囲の空気が少しだけ和らいだように感じられた。
「名前は?」
「……インターセプター」
「そうか」
 おいで、と手を伸ばしたが、犬は素っ気なく鼻を鳴らしただけで、ロックの方を向く気配すらない。
「愛想のないやつだな」
 軽く唇を尖らせると、隣のシャドウが苦笑じみた吐息を漏らした。ほとんど口元まで覆われたマスクを被っているせいで、表情は伺えない。それでもこの男がほんの僅かとは言え笑みを洩らしたことに、ロックは驚き、そして満足した。
 全く感情のない冷徹な男のように見えたものだが、どうやらそうでもないらしい。
 それだけでどことなくいい気分になって、出された酒を一気に煽る。度数の強い酒に、喉が焼けるような感覚がいっそ心地よかった。そう言えば昼から何も食べていない、空腹に気付いたがもはや後の祭りだ。次から次へと注がれる酒をぱかぱかと煽っていたら、いつの間にやらロックの視界はぐるぐると回り始めた。
 酔っている、と自覚しながら、止まらなかった。酒の量を見誤るなど久方ぶりだが、それだけ疲れていたんだろう、などと、頭の片隅でどこか冷静に自己分析をする。無様だ、と自嘲して一人笑っていると、隣の男が深く深く息を吐くのが聞こえた。
「……飲み過ぎじゃないのか」
 しかし、諌める声も右から左へと突き抜けて、意味は成さない。
 あっという間に出来上がったロックは、テーブルに突っ伏して深く嘆息する。それとなく隣の男の気配を伺えば、呆れてはいるようだが、席を離れる気配はなかった。話しかけてもろくな返事をよこさなかったが、話自体を聞いていないわけでもないようだ。
 一人で喋っているようなものだが、それでも聞き手がいるといないとでは随分違う。これ幸いと、ロックは心中を吐露してみることにした。
「……来るべきじゃなかった」
 ここは思い出が多すぎる。そんなことをぽつり呟くと、シャドウの視線がちらりとロックの方に向けられたようだった。反応があった事を喜んで、ロックはだらしなく笑った。
「まだ、あいつがどこかにいるような気がする」
 街角で、すれ違うような気がする。呼び止められるような気がする。あの時のまま、あの柔らかな声の彼女が、まだどこかにいるような気がする……
 木製の机をかりかりと爪で引っ掻きながら、ロックはそんなことをだらだらとぼやいた。シャドウはやはり黙ったままで、けれども彼の耳と意識が自分に向けられている事だけは感じながら、ロックは言っても詮無い愚痴をだらだらと洩らし続けた。
 過去の話をするのは初めてだ。それも、酔った勢いとは言え、よく知りもしない男に。不思議なものだと思いながらも、ロックは止まらなかった。この街に来た時のこと、彼女と出会ったときの事、その思い出と、別れの記憶と――
 ふと、からり、とグラスの氷が鳴る。ロックははっとして、思わず口を閉じた。溶けかけた氷が、室内の柔らかな光を反射して、ひどく眩しい。
 言いかけていたはずの言葉がなんであったのか、すでに忘れてしまった。中途半端に途切れてしまった言葉は、けれども結局の所意味のあるものではなかったので、思い出そうとするだけ無駄だろう。そう観念して、ロックは再び机に額を打ち付ける。
 さてどこまで話したのだったか、と思考を巡らせたその時、
「過去、か」
 と、ようやくシャドウが口を開いた。驚いて、ロックは顔を上げる。
 低く微かな声は、聞き間違いかと思ってしまうほどささやかなものだった。やはり幻聴だろうかといぶかしんでいると、静かにグラスを傾けていたシャドウの眼差しが、ひたとロックに向けられる。
 その冷たさ、鋭さに、酩酊したロックの頭が一瞬だけ、すうと冷えた。背筋に悪寒すら走る。だが。
「辛いなら、捨ててしまえばどうだ」
 次いで聞こえて来たその言葉に、思わずロックは激昂した。
「それが、出来れば!」
 たまらず机に打ち付けた拳が、どん! と大きな音を立てる。グラスが大きく揺れて、中身がほんのわずか周囲に飛び散った。店主がびくりと肩を震わせ、すぐに露骨に顔を歪めてみせる。しかし、目の前のシャドウは臆する様子もなく、相も変わらず平然としたまま、静かにロックを見つめるだけだ。傍らのインターセプターでさえ、ほんの少し首を巡らせて周囲を伺っただけだった。
 その目を見ていると、再び頭がひどく冷えて行くようで、ロックは嘆息した。かぶりを振って、改めて椅子に座り直す。
「……いや。違う。今のは忘れてくれ」
 グラスを弄び、からからと氷をならして遊びながら、言葉を選んだ。捨ててしまえばいいと言う、だが、そうしたいわけじゃない。逃げ出してしまうことを、望んでいるわけじゃあないのだ。
「捨てたい訳じゃない。取り戻したいだけだ」
「無理な話だ」
 ふん、とシャドウが鼻を鳴らした。そんなことは言われるまでもない。わかっている、と呻きながら、ロックは顔を伏せる。
 過ぎた事。過ぎ去ってしまった時。どれだけ手を伸ばしても、戻って来たりはしない。守れなかった愛しい人は、もう二度と、暗い闇の底から手を握り返してはくれないだろう。
「それでも、俺は」
 ――助けたかったんだ。その言葉は、嗚咽に消されて形を成さなかった。
 頭の中を、過ぎた酒がぐるぐると回る。机を濡らした涙を乱雑に袖で拭って、ロックはそのまま机に臥せった。
 ひどい頭痛がして、目を閉じる。そのまま、彼の意識は闇の中へと落ちていった。




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2010.6.4.up.