リグレット

 ずるずると鼻をすする音、意味を成さない謎の言葉を聞き流しながら、シャドウはグラスを傾ける事に勤しんだ。安い酒だが、不満はない。飲めればなんでも良かった。
 闇に生きる事を良しとしていても、光を懐かしむ事もある。いまこの瞬間がそうだった。ろくに話をした事もないこの怪しげな青年と席を共にしたのも、単なるシャドウの気まぐれに過ぎない。
 時折、夜を恐れるような気持ちになるのだ。理由は分からない。闇の中にいると、自分の纏う黒衣が溶け出し、やがて己も同化してしまうのではないか。そんなおかしな考えが頭を巡る時、シャドウは人の気配と灯りを求めて酒場に来るのだ。酒など飲んだ所で酔えもしないが、心遣りにはならなくもない。
 たまたまだ。この男は、そんな時に声をかけてきた。そうでなければ何を言われた所で、無視して席を立っただろう。例えこの男が、以前道行きを共にした男の知り合いであろうと、だ。こうして隣に腰掛けているのは、偶然と気まぐれの産物だった。
 しかし、と、シャドウは密かに笑みを浮かべる。
 裏の社会で名を知られるようになってから、彼に好んで近付くものなどいなくなった。それでなくとも仮面で顔を隠していれば、まっとうな人間ならまず関わり合いになろうとしない。親しげに声をかけられたのなど、まして一杯付き合え等と誘われたのはいったいどれほど久しい事か。
 少しだけ可笑しな気分になって、グラスを一気に煽る。すでに残り少なかった酒を一気に飲み干して、掌中で小さなグラスを弄ぶ。
 空になったグラスの底の方で、ちびた氷が照明を弾いている。きらきら輝くなめらかな表面を飽きる事なく眺めていると、隣の男が奇妙なうめき声を上げた。
 ちらと視線を向けると、どうやら泣きながら寝入ってしまった様子だった。テーブルの上に涎だか涙だか判別の付かない水たまりが出来ている。
 随分と酔っていた様子だったが、それにしても。
 あきれ果て、シャドウは小さく嘆息した。その吐息に答えるように、傍らの愛犬が首を持ち上げ、小さく鼻を鳴らす。手を伸ばして、鼻先を撫でてやる。薄い手袋を透かして生暖かな舌の感触が伝わってきた。それだけでどこか安心したような気持ちになる。
 もう一杯、と頼むと、店主はすぐにグラスに酒を注いだ。琥珀色の液体が満たされたグラスが、目の前に置かれる。揺れる水面を飽きる事なく眺め、ふと先ほどの会話を思い出した。
 助けたかったんだ。
 嗚咽に混じってよく聞き取れなかったが、男は確かにそう言った。確か名前をロックと言ったか。
 酔っていたのだろう。聞きもしないのに、自分の事をべらべらと喋り出した。なんとはなしに耳を傾けていたのだが、どうやらこの村に想い人でもいたらしい。
 大の男が泣きながら寝入るなど、とは思うが、少しだけ羨ましくも思える。過去を懐かしみ、己の無力さを悔い、泣きわめく事が出来ればどれほど良いだろう。そうするには、シャドウが背負って来たものはすでに重すぎる。奪って来たものが、多すぎる――
 くぅんと愛犬が声を立てた。知らず、眉間に皺が寄っている。息を吐きながら、全身から力を抜いた。
 闇を恐れるのは、その奥から伸びる手が見えるからだ。精神を、身体を、暗い底へと引きずり込もうとする怨嗟の言葉が聞こえるからだ。その姿は、声は、いつでも見知った男のものをしている。あの男の事を、かつては友人と呼んでいた。
「助けたかった か」
 ぽつりと声を洩らすと、酒場の店主が訝しげな顔で振り返った。
 気にせずに、酒を呷る。しばし視線を感じたが、やがては店主は再び顔を背け、フルートグラスを磨く作業に戻った。
 そう言えたなら、どれだけ――
 浮かびかけた思考は、鼻を鳴らして一笑の元に打ち消した。そう思えたならどれほど良かったか、だがそうならなかった。あの時も、今も尚。
 捨てたつもりの己の過去。カウンターの下の足下、照明の届かない僅かな暗闇からさえも、闇がじわじわと這い登って来るような気がする。捨てた友人の影と共に。
 ふと、隣で寝息を立てる男を眩しく思った。この男には、闇から伸びる手は見えないのだろう。夜を恐れて、こんな場所で時間をつぶす事もないのだろう。夜を恐れ、夜明けを待ちわびる事もなく。そんな生き方は、シャドウは疾うに忘れてしまった。もう戻れそうにはない。
 その時、ふと遠くから聞き覚えのある声が聞こえて来た。徐々に近付いて来る。何気なく振り返ると、丁度二人の男がこちらを見つけた所だった。
「お。やっぱここに居たのか」
「……お前は」
 現れた男の顔を見て、シャドウは目を細める。上背のある大柄な男で、名前はマッシュと名乗っていた。
 彼は以前シャドウの雇い主となり、ほんの短い間だが道行きを共にした。人なつこい男で、シャドウの顔を見て、ぱっと破顔する。
「まさかあんたとロックが一緒に飲んでるとは思わなかったよ」
「……付き合わされただけだ」
 苦い気持ちで答えると、マッシュは軽く笑い、そうかそうかと頷いた。その隣には、顔のよく似た身なりの良い男が立っている。それが誰なのか、シャドウはたいして興味を持たなかった。ただ、以前マッシュは「兄と合流しなければ」としきりに口にしていたことを思い出す。顔立ちと雰囲気が似通っている所からして、大方その兄貴とやらだろう。
 マッシュは何度もロックを呼び、揺さぶり、起こそうと試したようだ。だが、何度やっても彼は意味不明な呻き声を返すだけで、一向に目覚める気配がなかった。
「しょうがないな。このまま連れていこう」
 軽々とロックを背負い、マッシュは笑う。連れの男が、ロックの分だけにしては多すぎる金額を店主に支払っているのが見えた。眉を顰めたが、わざわざ咎めるほどのことでもないと思い直し、黙って見送る事にする。
 マッシュは最後に一度振り返り、歯を見せて笑った。
「じゃあな、シャドウ」
 太陽のような男、という表現は、いささかシャドウの感覚からはこそばゆい。だが実際そうとしか言いようのない、全く陰りのない明るい笑顔で、マッシュは去っていく。
 背中に背負われた男の青いバンダナを見つめた。夜の色ではない。真昼の空の色だ。あの男はまだ日中にいる。闇色の衣しか纏う事の出来ないシャドウとは違って。
 取り戻したいのだ、と、涙を浮かべて語った。その浅はかさを笑いながら、どこかで恨めしく思う己を、シャドウは静かに認めた。
 もうとっくに泣けなくなった己を想う。過去を想う。今もまだ、どこかから自分を呼ぶ声が聞こえた。夜に誘う、懐かしい友の声が。
「……お前は、取り戻せるだろうか」
 せめて自分のようにはならないといい。聴こえているはずのない声を、ぐったりと眠る背中にかける。その瞬間、インターセプターがくぅんと一声鳴いた。夜はまだ明けない。






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2010.6.29.up.