離反

 カツ、カツ、カツ、と。
 丁寧に磨かれた廊下は、やたらと靴の音が反響した。セリスは自分の動きに合わせて起こる耳障りな音に、眉を顰める。
 ――帝国が誇る、魔導研究所。
 そこはかつて、つまり軍に入るほんの数年前までセリスがいた場所だった。
 だが、目に馴染んだ光景も、新しく設置されたのだろうか、全く見覚えのない施設も、今の彼女の興味を惹く事はない。
 むしろその見慣れた世界に、肚の底からふつふつと不快感がわき上がってくる。
 ここに、いい思い出などひとつもない。もちろん、愛着も郷愁もあろうはずがない。彼女は無意識のうちに歩調を早めた。
 周囲のものには目もくれず、人気のない長い廊下を真っ直ぐに進んでいく。
「――おや、これはこれは」
 と、彼女が目的の場所へと向かう途中、突然声を掛けられた。
 セリスは立ち止まる。声のした方を振り向くと、そこには奇妙な出で立ちをした男がひとり。
 彼はどこか下卑た笑みを浮かべて、手頃な壁に寄りかかるようにして立ち、セリスの方をじっと見つめている。
「ケフカ……」
「お久しぶりですねぇ、セリス」
 彼はセリスに応えて、その笑みを深くする。醜く歪んだ口元を見て、セリスが不快そうに目を細めた。
「こんな所で、何をしている?」
 セリスの問いに、彼は芝居がかった動作で肩をすくめてみせる。
「"彼女"を見に来たんですよ。――仕上がりは悪くない」
 彼女。その言葉にセリスは一瞬息を飲んだ。苦く呟く。
「……例の少女か」
「アレさえ使えるようになれば、色々と事が運ぶ。あなたの役にも立つ事でしょう」
 彼女は、ゆっくりと頷くケフカを見つめた。
 いつでもゆるく笑みを形作る唇、焦点の定まらない瞳、そして道化のような化粧――。異様なその面立ちからは、彼の意図を推し量る事は出来ない。
 セリスは固く拳を握った。人を人と思わない言い草が、どうしようもなく癪に障る。
「……使う、か。随分な言い方をする」
 彼女は冷たく、精一杯の侮蔑を込めて吐き捨てた。
 だが、セリスの視線を受けて、ケフカは声を立てて嗤う。きんきんと頭に響く、嫌な声だった。
 そうして一通り笑い終えると、彼は一旦息を吐き、セリスに正面から向き合った。また、あの不気味な笑みを浮かべる。
「――お前とて、俺と変わらんだろう。……セリス将軍?」
 抑揚もなく、早口に、ケフカはそう呟いた。
 その意味に、セリスが凍り付く。ケフカの顔を見つめたまま、動く事が出来なかった。
 冷ややかに嘲笑を浮かべて、ケフカが軽く息を吐く。
 しばし見つめあった後、彼は突然セリスから興味をなくしたように、壁に凭れていた身体を離した。そのまま彼女の脇を通り、無言のまま足早に去っていく。
 奇妙の靴の奇妙な靴音が、奇妙なほどに耳についた。その合間に、あの不快な笑い声が聞こえてくる。セリスは唇を噛んだ。
 ケフカの足音はリズムを変える事もなく、少しずつ遠ざかっていく。
 それを茫然と聞きながら、セリスは頭の片隅で、思い出していた。

 彼女がまだ5つか6つの時の事だ。ベクタに、ひとりの穏やかな青年がいた。
 にこやかに微笑んでいた彼。
 何度も何度もセリスに笑いかけ、話しかけてくれた彼。
 青年は帝国の未来と、夢を照れながら語った。もっとも当時のセリスには、彼の言った事がその半分も理解出来なかったけれど。
 とにかく、とても穏やかで、優しい青年がひとり、セリスの側にいた。だがある日、彼は突然、彼女の前から姿を消す。
 そうして、代わりに現れたのが、あの男だ。
「ケフカ――……」
 憎々しげに、だがどこか悲しげに、セリスがその名を呟く。
 かつての青年と同じ名を名乗り、目鼻立ちもよく似ていた。
 ケフカは言った。自分が、自分こそが、まぎれもなく『彼』だと。だが、セリスには信じる事が出来なかった。どうして信じる事が出来よう?
 言動が変わり、主義主張も全く変わって、顔つきまで変わったこの男を、どうしてそう思う事が出来る?あんなに優しかったのに、今のこの男はどうだ? 
 シドは言った。
 ――実験は成功だった、だが、その代償が大きすぎたと。
 そうしてシドはまた研究に熱中していく。対価を払わずとも力を得られる技術の開発をと、寝食を惜しんで研究室にこもった。
 彼女はなんどもなんども問いかけた。彼は、あの青年はどうしたのか――。
 だが、新しい壁を見つけてしまったシドの耳には、セリスの声など届かない。
 やがて、小さな研究室から出て来たシドは、セリスにその研究の成果を与えた。
 直接手を加えたのはシドだったが、そうするように進言したのが他ならぬあの男だったと言う事を、彼女は知っている。
「……狂ってる」
 あの時呟いたものと、寸分違わぬ言葉をセリスは今、もう一度吐いた。
 あの青年は消えた。どこに?
 ――そんな事は、セリスにはもう、わかっている。

  ”お前も、同じか――”
  ”お前とて、俺と変わらん――”

 いつしか浴びせられた言葉と、先ほど聞かされた言葉がセリスの胸に蘇る。
 セリスは両手で顔を覆った。途端、血の匂いが鼻につく。
 驚いてその手を離し、まじまじと見つめた。
 手に染み付いてしまった匂い。気のせいだとわかっても、その臭気はからどうしても目を背ける事が出来ない。
 ぽたりと、手のひらに涙が落ちた。
 一粒零れ、次いで両目からぽろぽろと溢れていく。
 人を人とも思わぬような実験を繰り返す事。
 人を兵器として扱い利用する事。
 そして、人の命を数えきれぬ程に奪う事。
 ――確かに、どれも同じだった。
 狂っていると言った自分もまた、既に等しく狂気に囚われている。
「いつまで続ければいい……!」
 セリスは嗚咽まじりに呟いた。
 人を殺し、街を焼き、国を滅ぼして、それをいつまで?
 彼女は、その問いを何度も己に投げかけて来た。その度に、慰める。
 それが、それしか自分に望まれていないのだとしたら、戦う事も仕方がない。
 今度の戦いが終わればきっと。次の命令を遂げればいつか。
 だが、その全てを越えても、まだセリスは剣を握り続けている。
 洗っても洗っても、身体からあの臭気が取れない。人の灼けるあのにおい。
 怒号、悲鳴、命乞いも、踏みにじって来た人々の叫びが耳に馴染んで離れなかった。
 それらに慣れたと思おうとしても、息苦しさが消える事はない。
「もう、嫌だ――」
 レオの軽蔑の眼。彼が何を言わんとしたのか、セリスには痛いほどに判る。
 だが、どうしても理解する事が出来なかった。判ってしまえば、将軍としての自分の存在が折れてしまう。だから、判らない振りをしていたのに――
 ケフカの冷酷な眼差しで、無理矢理に気付かされた。まざまざと鼻の先で見せつけられた。
 狂っている。今の自分も、また。
 その事実が、辛かった。
「嫌よ……」
 セリスはその場にしゃがみ込んだ。固い床に涙が零れて、弾かれる。
 いなくなった青年。今ここにいる男。
 では自分はどこに行くのだろう。 このまま、この場所で、どこへ? 彼と、同じ場所に?
 そう考えれば考えるほどに、たまらなく恐ろしい。
 セリスはその場で、静かに涙を流し続けた。小さな子どものように、震えて。



 ――魔導研究所の一角、あまり人の立ち入らない奥まった場所に、それはひっそりと存在していた。
 シド博士の温室である。
 数年前、彼が趣味と実益をかねて作ったその温室には、所狭しと様々な花が咲き乱れ、四方の壁は奇妙な蔓と葉に覆われている。
 一通りの仕事を終えると、シドはよくそこに籠って植物の世話と改良に明け暮れた。 
 今もまた、彼がそこに立ち入ると――珍しく、中には先客がいた。
 半ば植物に埋もれるようになってしまっている、小さな椅子。そこに人待ち顔で腰掛けているのは、彼が古くから知る少女だ。
「おお、セリス。来ていたのかね?」
 シドはにっこりと笑って話しかけた。すると、セリスが弾かれたように振り返る。
「……ええ」
 弱々しく微笑みを浮かべた彼女を見て、シドは僅かに首を傾げた。
 ――目が赤い。顔色もひどく悪かった。
 事情を何となく察して、シドは苦笑する。
 彼女は今までも、何度かここに泣きに来ていた。
 つい先日も、理由は判らないが、彼女はここで来て、長い時間泣き続けた。
 入ってくるなりそこにいたシドに縋り、もう嫌だと何度も呟く。理由を問うたが、答えなかった。何が起こったのか判らずに、シドはただ彼女の背を撫でる。
 彼女は何も語らず、ただただ泣いた。泣きつかれた後は、そのまま黙ってそこを出て行った。――ほんの数日前のことだ。
 彼女の置かれた状況は過酷だ。それは、シドとてよくわかっている。だから、そういうことがあってもおかしくない。どんな力があろうと、彼女はまだ十八の少女なのだ。
 ひとつ息を吐いてから、彼はセリスの肩に手を置く。何も聞かない事に決めた。  
「ゆっくりしていきなさい。お前ならいつでも歓迎じゃ」
 話をそらすように問いかければ、彼女が安堵したように頷いた。
「……ありがとう」
 まだ口調には元気がなかったが、表情はいくらか和らいでいる。 
 シドが満足げに笑った。
「来てくれてよかったよ。そろそろ呼びにいこうかと思っていた所じゃ」
「え?」
 首を傾げるセリスに、彼はしたり顔で部屋の片隅を指差す。
「もう咲きそうなんじゃよ、ほれ――」
 彼が示したのは、バラが植えられた一角だった。
 そこには数多くの蕾が赤く色づき、今にも咲き出しそうなほどに膨らんでいる。
「明日か……そうだな、遅くてもあさってには咲くじゃろ」
 言いながら、シドはそのバラに近づく。
 他の場所よりも丁寧に手が入れられ、小綺麗につくろわれた場所。そこにあるのは、ただのバラではなく、特別なバラだった。
「……綺麗ね」
 セリスがぽつりと呟く。シドは振り返り、肩をすくめた。
「咲いたらもっと綺麗じゃよ。……お前のバラじゃからな」
 その言葉に、セリスは嬉しそうに笑った。
 そう、それは他ならぬ彼女の花だ。
 彼が何年もかけて改良し、手を加え、去年やっと咲いたその株。シドはその名をセリスと付け、彼女に贈った。
 ひかえめで愛らしい小花をいっぱいにつける、真っ赤なバラ。それは、この少女にぴったりだと、シドは思っている。
 ――だが。ふとシドの脳裏に、最近よく聞く彼女の噂が蘇った。
「そういえば……話は、色々と聞いておるよ」
 探るように話掛ければ、セリスの身体が強ばった。
 話――それは、このベクタにいる人間なら誰でも知っている。
 マランダ陥落を初めとした、数々の戦。そこでこの少女が何をしたか、帝国中の人間の間で噂に上っている。
 ある者は彼女を勝利の女神と讃えた。彼女がその力を奮えば、かならず勝ち戦となる。常勝将軍、と彼らはセリスを賞賛した。すばらしい力と功績の将として。
 そしてある者は、冷酷な魔女と彼女を評する。手向かう者に容赦なく死を与えるその姿。彼らは畏怖を込めて、常勝将軍と彼女を呼ぶ。血も涙もない、恐ろしい女として。
 シドは俯き、かぶりを振った。
「……大変だったようだな」
「……ええ」
 ぼんやりと答えるセリスの表情は、重く沈んでいた。少女の微笑みが、全く別の女性の、冷たい顔に変わる。
 ちくりとシドの胸が痛んだ。こういう表情をさせているのは誰か。
 それを思うと心苦しい。
 と、セリスが突然顔を上げる。
「ねえ、シド?」
「なんじゃ?」
 シドが問い返す。セリスはほんの僅か、逡巡するように視線を彷徨わせた。
 ひとつ呼吸を置いてから、彼女は思い詰めたような顔で口を開く。
「……私――」
 その時。シドとセリス以外には滅多に開けられる事のない扉が、大きな音を立てて開いた。
「博士!」
 同時に、ひとりの研究員らしき白衣の男が駆け込んでくる。シドとセリスは驚き、振り返った。男の慌てた様子にただならぬ空気を感じ、シドが口を開く。
「どうした、騒々しい」
 その問いに彼は答えようとして――セリスに目を止め、慌てた様子で礼をとった。
「あ……失礼いたしました!将軍がおいでになるとは存じませず……」
「いい。それより、何があった?」
 その男に、シドは歩み寄る。男はちらりとセリスを一瞥し、すぐにシドに顔を寄せ、何事かを耳打ちした。
 シドの顔がみるみる青ざめる。
「なにかあったの?」
 尋常ではない様子を感じ、セリスが思わずそう聞けば、彼は深く嘆息した。
「……ああ」
 セリスのもとに戻ると、彼女の細い肩を叩く。
「すまん、行かなければ。――何か話があったんじゃろう?」
 申し訳なさそうに言う彼に、セリスは苦笑しながら首を横に振ってみせた。
 その顔をシドは悲しげに見やり、彼女の髪をそっと撫でた。幼子にそうするように。
「本当にすまんの。良かったら待っていなさい。じきに戻る」
「博士――」
 焦れたように呼ぶ男の声に、シドは後ろ髪を引かれる思いで振り返った。
「うむ。……じゃあ、セリス」
「ええ。いってらっしゃい」
 セリスが笑った。シドも苦笑を返す。軽く手を振って、シドは男とともに急ぎ研究所に向かった。

 人気のなくなった温室にひとり残り、セリスはしばらくの間、彼らの出て行った扉をじっと見つめていた。
 やがてそれに飽きたかのように視線を移す。先ほどシドの示した、バラを見た。そして、去年あの花が咲いた時の事を思う。
 本当に、綺麗だった。今でもあの美しさと感動を、はっきりと思い出す事が出来る。
 これが、お前の花じゃ。
 そう言ってシドが示したバラは、愛らしい花をいくつもつけて、本当に、本当に綺麗だったのだ。その美しさに、その当時すでに疲弊しきっていたセリスの心は、随分と癒された。
 セリスは小さく溜め息を吐く。それを思うと、自分が行おうとしている事が恐ろしく残虐な事に感じた。
 だが。
 セリスは決意とともにのろのろと立ち上がると、その芽吹きかけた命に近づいた。
 たくさんの小さな花。まだ固く閉じた蕾もあれば、本当に今にも花開きそうなものまで、様々だ。
 ――これは自分か。それとも将軍として血を浴びた己の姿か。
 考えてみたが、それがどちらなのか彼女にはわからなかった。
 だが、いずれにせよ――もう必要のないものなのだと、思う。
 シドに謝る事も、別れを告げる事も、お礼を言う事も出来なかったのが心残りだったが、仕方がない。
「……さようなら」
 それは花にか。シドにか。あるいは、セリス自身にか。
 よくわからぬままに、彼女は消え入りそうな声で呟いた。そして、その蕾のひとつに手を伸ばす。



「セリス?」
 シドが戻って来たとき、そこにセリスの姿はなかった。
 その代わりに彼の目に映ったのは、毟られ、千切られ、地に落ちた赤い花びら。
 辺り一面に、まるで血のように広がった、彼女と同じ名の――
「セリス……」
 シドは跪き、その花びらに手を触れる。執拗に細かく裂かれた花びらが意味するものは、なにか。
 シドは温室の入り口を振り返る。次いで、先刻セリスが腰掛けていた椅子を。
 だが、勿論、そこに彼女の姿はない。


   ほどなくして、帝国中をひとつの報せが駆け巡る。
 瞬く間にそれは帝国中に知れ渡り、そしてもちろん、シドの元にも届いた。

 ――将軍セリス、造反。



    


2005.05.11.up